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マンドリンと管楽器の関係

 

僕の編曲は、例外なく管楽器は使用しない。僕のポリシーである。なぜか。
管楽器のトーンはマンドリンの独特な音色を消してしまうからである。
マンドリンの音色は、金属弦をはじくことによって、乾いた音の空気が適度な隙間を生じながら幾層にも重なることにより産み出される。
ところが管楽器は、そのせっかくの空気の隙間を埋めてしまうのである。
うまく言えないが、埋められてしまった音は単なる平板なものになってしまい、いわゆる「アルコ」楽器を中途半端にした感じに成り下がってしまうような気がする。音色が変質するだけでなく、音量の面でも負けてしまう。

世間に出ているマンドリン合奏のためのクラシックの編曲は、通常のオーケストラのように管楽器を使用しているものが多い。
しかし、マンドリンは、調律・運指こそ同じだがバイオリンとは違う楽器である。音量も音色も表現方法も異なっている。第1バイオリンと同じ旋律を第1マンドリンに弾かせ、その上に管楽器を単純に乗せてしまうことをすれば、通常のオケより、表現力、音量、迫力に乏しい、いわゆる「レベルの低い」合奏になってしまうのではないだろうか。
オケの曲をオケのように演奏したいのなら、それはオケの編成でやるべきだ。マンドリン合奏によるコピーは無理だし、そんなことはやるべきではないと考える。
弦パートをそのままマンドリン族にあてはめ、あとは適当にギターパートを創作して編曲を処理するなんてことをやっていては、せっかくのマンドリン合奏のよさが出ないと思う。

クラシックであれ、ポピュラーであれ、可能な限りマンドリン族の楽器で表現することで、それらはマンドリン流の楽曲となり、マンドリン合奏の真価が出てくると確信する。

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幻の国「邪馬台」や「失われた都」で知られる作曲家「鈴木静一」氏といえば、管楽器や打楽器を従えたマンドリンの大合奏の醍醐味を世間に伝えた斯界の権威である。このことについては誰にも疑いのないところであろう。
彼が数々の作品を発表するまでは、マンドリン合奏曲は武井守成氏等の楽曲群に見られるように、いわゆる「小品」の域を超えていなかった。
鈴木氏の作品は、マンドリン合奏でもここまでできるんだ、という強いアピール性があり、彼の気概と意気込みは熊谷賢一氏や藤掛廣幸氏の作品、そして現在の数々の邦人オリジナル曲に脈々と引きつがれていると言っても過言ではない。

さて、鈴木氏のほとんどの作品は、フルート・クラリネットを標準的に使用しており、曲によってはホルンやファゴットなども使われている。
僕が学生の時、鈴木氏の作品を取り上げるにはそれなりの勇気が必要であった。
それは技巧的に云々と言うよりも、管楽器パートをどう確保するかというところに起因する。
通常はオケ部に賛助出演を依頼する。しかし彼らは、そもそも本来の演奏会の準備に忙しい。
それでも何とか頼み込んで、本番直前に来てもらうのだが、突然、異質な音色で音の大きいパートがやってくるわけで、それまで半年間、地道に練習してきたマンドリンクラブのプロパー団員は、曲のあまりの変わりように戸惑うのである。よい方に変わるのならよいが、必ずしもそうとは限らない。

例えば、ある曲の一部において、特徴的な16分音符の分散和音をドラパートが受け持っているとする。
一筋縄ではいかないので、彼らは半年間、一所懸命練習するであろう。
その結果、本番直前にはそれなりのできばえになっていて、その場所がきたら他のパート員から拍手喝采を浴びたり、自分たちも意気に感じていたりする。
ところが、全く同じフレーズがふられているクラリネットが突然やってきたら、ドラは音量的に負けてしまい、合奏の中で何をやっているかよくわからないという状況になるのである。努力が報われない、とはまさにこのことである。

鈴木氏の作品に限らず、オケ曲も含めてそれに似たシーンを僕は何度も見てきた。
それでも、本番で曲としてうまくいけばよいのだが、にわか練習なのは否めず、殆どの場合、音がずれたりかすれたり等、満足できるできばえではなかったりする。

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ここで僕の言いたいことは次の3点である。

1つ目は、マンドリン合奏には管パートは標準装備されていないのが当たり前なのだ、ということ。
イタリアで発祥したマンドリンという楽器は、中音域を持つマンドラ、低音域を持つマンドセロ、さらには特殊ではあるが、マンドローネ、カルティーノなどの楽器群を生み出して、ギター・コントラバスを加えたマンドリン合奏が形作られた。楽器編成上、ここで完結していると言える。イタリアのオリジナルでは、管楽器が組み込まれた楽曲は非常に数少ないことからもわかる。

2つ目は、マンドリン音楽を引き立たせる目的で管楽器を効果的に使用する、という意図が作曲者(編曲者)にあるかどうか、ということ。
鈴木氏は、管楽器とマンドリンの旋律を対比させることで、マンドリンの持つ個性を強調しようと考えたと思われる箇所が随所にある。
しかし、悲しいかな、そういうことばかりも言ってられず、ついユニゾンで処理してしまったところが少なくなく、そういう箇所ではマンドリン族のプレーヤーは音量面で負けてしまい、人知れず涙を飲んだことであろう。

3つ目は、そういうリスクを背負ってまで管楽器を使用することは、果たして現実的な選択なのかどうか、ということである。
マンドリン合奏が、管弦楽に対抗して背伸びしたって仕方ない。僕たちは僕たちの楽器の「個性」「持ち味」を十分生かしていくことを考えていけばよいのではないだろうか。

このように考えると、管楽器付きの鈴木氏の作品を取り上げる場合は、曲全体の雰囲気・曲想で勝負するとともに、やや矛盾するが、大胆に濃淡をつけて(演奏的にがんばる所、「あきらめる」所を明確に見極める)ポイントを絞った観客へのアピールが必要であると考える。
また、これから作曲をされる方々には、できるだけ管楽器を使ってほしくないな、と思うのである。

そして、オーケストラ曲を演奏する場合は、単純にそのまま管楽器を使用したり、管楽器のフレーズを同一楽器にディビジョンで割り振ったり、といった安易な編曲をするのではなく、マンドリン合奏のアピールポイント(特性・音色)を念頭に置いた編曲を行う必要があることは言うまでもない。

パートの民主化

 

多数のマンドリン曲を世に出した作曲家熊谷賢一氏が自作の演奏を禁止していた時期があったということ知ったのは、かなり最近になってからである。
熊谷賢一氏は、大学時代に作品を取り上げた際、二度にわたり直接指導に来ていただいたことがある。とても参考になる練習で、情熱を持って音楽にあたる、という姿勢を目の当たりにしたし、さらに練習の後、居酒屋でいろいろとためになる話を聞くことができた。
その中で特に印象が深かったコメントがある。

一つ目は、演奏する場合は作曲者の意図を尊重した解釈をするべきだ、もう一つは、マンドリンの楽曲を作るときはパートの民主化を図らなければならない、ということである。 

熊谷氏によれば、自分の曲を勝手に取り上げているどこかの団体の演奏会にお忍びで聞きにいったのだが、あまりに自分勝手な解釈によるお粗末な演奏に激怒したことがあったそうである。
クラシック音楽の世界では、指揮者によっていろいろな解釈による演奏が存在するが、その解釈の違いも、プロの指揮者が、その音楽的才能と良心に基づいたものであることがほとんどであろうし、それほどはかけ離れたものにはなっていないと思われる。
しかし、マンドリン音楽はそのほとんどがアマチュアの楽団によって演奏されており、しかも学生の割合が非常に高い。作曲者の意図を尊重していない演奏が行われる可能性も高いだろう。自分の曲が曲解されているのを見るのは忍びないことは容易に想像できる。
編曲者の立場でも、そういうことは言えなくもない。自分の「設計図」には、当然こだわりがあるので、どこかを変更するときは、編曲者にまずは相談してほしい、という思いである。

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さて、2つ目のコメントである、「パートの民主化」という言葉は、聞きなれないものだった。
この精神は、現在の自分の編曲ポリシーのいわば原型であり、相当大きな影響を受けている。
一口にイタリアのマンドリンオリジナルと言っても、それこそいろいろある。作曲家により作風が違うし、楽曲の構成も千差万別だ。
しかし熊谷賢一氏は、それらの違いに関係なく、基本的に「イタリアのマンドリンオリジナル」というカテゴリーを毛嫌いしているようだった。
曰く…

・ベースはどの部分にも一小節に音が2個しかないぞ。
・チェロは全音符やリズムのきざみが殆どだ。
・ギターはコードをつまんでいるだけだ。
・おいしいところは全部1stじゃないか。
・2ndは3度下で和声をつけるか、長音符。
・半面、Dolaはわりとおもしろい。オケのチェロとビオラの役割のどちらも担っているから。

聞いていて、そりゃそういう曲は確かに多いけど、そんなんばかりではないですよ~と言おうとしたが、信念に基づく迫力があり、なかなか言い返せなかった。
しかし、熊谷賢一氏の仮説はかなりの部分で間違ってはいない。
これまで私も数え切れないくらいの楽譜を見てきたが、日本ではほとんど知られていないマイナーな作曲者による小品は、そのメロディーは悪くないものの、いわゆる編曲技術に問題があるものが多いと思われる。
ただ、イタリアオリジナルの普及に努めた中野二郎氏は、その辺をすごく意識した編曲を行っており、現在でも演奏会の定番になっている楽曲は、各パートとも非常に工夫が凝らされている。

以後、熊谷賢一氏は、様々なオリジナル曲を世間に発表し、そのポリシーを実践していった。 ボカリーズ、バラード、ラプソディー、群炎などの各シリーズは学生を中心に幅広く演奏されてきた。

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さて、熊谷賢一氏は私にこう言った。

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各パートに光を当てることにより、どのパートのプレイヤーも弾いて楽しめ、自分のパートを聴衆にアピールすることができなければならない。
そうでなければ楽しくない。
自分の作る音楽は、過去のパートの役割を打破したい。例えばベースだってセロだってギターだってどんどん旋律を受け持たせる。
そして、1stだけでなくみんなの力で曲を表現する。
それがパートの民主化なんだ。
・・・・・

この先生の言葉は、学生だった私に相当大きな教えであった。その影響は計り知れない。
パートの民主化。音楽はみんなで行う共同作業。
以後、合奏が楽しくて楽しくて仕方がない。
そして編曲作業をするときは、必ずそれぞれのパート員が演奏している様子を思い浮かべている。
自分の楽器に誇りを持ち、主役になるときはしっかりアピールし、脇役になるときは主役をしっかり支える、そういう風にして聴衆に音楽への思いが伝わるような演奏をしたい、といつも考えている。

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