top of page
皇女和宮論

 

■曲名について■


本曲は、もともとは1971年に「明治維新」の表題で発表された。
翌年の1972年、和宮の主題を新たに書き加えて増補し、「維新の蔭に」(皇女和宮降嫁)に表題が書き改められている。
後年さらに改題し、「交響詩「皇女和宮」~維新の蔭に」とされたようだ。 
改訂版の発表後は多数の楽団で本曲は演奏されたが、実は日本各地の楽団における演奏会での題名の表記が統一せず多岐にわたっており、悩ましい問題が生じている。

(演奏会における表記例) 
・交響詩「維新の陰に」~皇女和宮 
・維新の蔭に「皇女和宮」 
・「皇女和宮」降家(維新の陰に) 
・維新の蔭に-皇女和宮降嫁-
・交響曲「皇女和宮」 
・維新の蔭に「皇女和宮」降嫁 
・交響詩「 皇女和宮」 
・維新の影に~皇女和宮 
・交響詩『皇女和宮・維新の蔭に』 

(疑問点) 
・「皇女和宮」と「維新の蔭に」のどちらが副題なのか?
・また「影」と「蔭」はどちらが正しいのか? 
・「降嫁」の文字は必要なのかどうか? 

色々と調べてみると、一番多く使われているのは、 
交響詩「皇女和宮」
のようである。
1976年11月に実施された立命館大学マンドリンクラブ第13回定期演奏会で、本曲が取り上げられており、表記は「交響詩「皇女和宮」」とされている。
故鈴木静一氏は立命館大学の技術顧問を長く務めており、数々の作品が立命館から発表された。
折しも今年、立命館大学は「交響詩「 皇女和宮」」の題名により演奏しているようであり、わが楽団も、題名表記はこれに倣うこととする。 
楽曲は、まさに「和」の雰囲気満載。
歴史上の出来事をモチーフにしたいくつかの小曲で構成されており、聞きごたえのある名曲だと思う。

■楽曲構成について(1)■  

交響詩「皇女和宮」はいくつかの異なるテーマによって構成されている。 
歴史上の人物を題材にした楽曲なので、それぞれのテーマは、基本的には歴史上の出来事がイマジネーションされたものである。 
また、後述するが、フランス国歌「ラ・マルセイエース」や雅楽のスタンダード・ナンバーである「越天楽」、日本における西洋風音楽の草分け的な曲である「ヤパンマルス」のフレーズが楽曲の随所に登場し、とても興味深い。
演奏者側も楽しい気分になれる曲だ。
さて、本曲を作曲した故鈴木静一氏は、彼が記した「そのマンドリン音楽と生涯」の中で、交響詩「皇女和宮」の背景について下記のように述べている。

600年の長期に渉り続いた武家政治を滅ぼし、王政振興を策す志士の暗躍は、1860年雪の朝桜田門外で大老井伊暗殺を契機とし表面化したのであるが、それ以前外からは開港を迫る英米仏の弾圧があり、徳川幕府は既に窮地に追い込まれていたのである。 内外からの圧力に苦慮する幕府は孝明天皇の妹和宮内親王を、時の将軍徳川家茂に迎え苦境乗り切りを図った。これが世に言う“皇女和宮の降嫁”である。 曲は必ずしも年代を追わず激動する世相を描き、維新の犠牲となった皇女の悲運を語る。

簡潔かつ的確で、実にわかりやすい内容だ。
要は、和宮は政略結婚の道具にされたのである。 
この辺の事情については、別の時にゆっくり述べる。 
そして、鈴木氏は楽曲の中身にも具体的に触れており、その文章を引用してみる。 
暗く沈んだ維新の主題を低音部が奏し、その上にフルートが、和宮のライトモティヴを呈示し曲を開く(※1)。
それは停止することなく主部に入り激動する世相を描いて続く(※2)。
突如! フランス国歌が高く響く(※3)。
これはフランス海軍の馬関(下関)砲で、激動は次第に力を失い、冒頭に出たフルートソロによる和宮の主題が悲しく現われる(※4)。
急激な断落により雅楽風の節奏を引き出し、哀寂を帯びた越天楽のパラフレーズが、東海道を避け淋しい木曽路を江戸に向かう和宮の悲しき旅を描いてゆく(※5)。
再び現われる維新の主題が荒々しくかき乱すが(※6)、その中から軽やかなサイドドラムのリズムが出て、曲は有名なヤパンマルス(官軍行進曲)となる。官軍の東進である(※7)。
そして前より明るさを増した越天楽がマーチと響きかわし王政復興の歓喜を歌い上げ、急速な結尾部に突入し曲を結ぶ(※8)。

注(副題) ※1…和宮の主題、※2…動乱、※3…フランス海軍馬関砲撃、※4…徳川、皇女の降嫁を求める、※5…和宮、東海道を避け、木曽路より江戸に降る、※6…動乱、※7…ヤパンマルス、※8…維新なる 

■楽曲構成について(2)■ 

具体的に、各部分の表題と速度記号、小節番号を記して、解釈を試みた。 

・和宮の主題(Adagio 1小節~12小節)
この部分は特に歴史のどこかの部分を表現しているわけではなく、激動の時代に翻弄された和宮の人生をイメージしたものであろう。 当楽団ではフルートソロの部分は、1stマンドリンが対応することにしている。

・動乱(Allegro Vivace 13小節~82小節) 
ここはペリー来航から安政の大獄、尊皇攘夷運動に至る一連の時代の高揚と騒乱を描いていると思う。後で歴史背景のおさらいをしてみたい。

・フランス海軍馬関砲撃(83小節~100小節)
そしてとうとう長州藩により攘夷が実行されたが、フランス軍をはじめとする連合艦隊にあっさりやられてしまう。
突然フランス国歌が使用され、実に印象的な箇所である。

・徳川、皇女の降嫁を求める(Andante Elegante 101小節~124小節)
権威が地に落ちてきた幕府によって、起死回生策として、かねてからのプランであった「公武合体」を朝廷に要望する。
和宮の身を案じ難色を示していた孝明天皇だったが、幕府の二枚舌と岩倉具視らの画策により実現。

・和宮、東海道を避け、木曽路より江戸に降る(Largetto 125小節~174小節) 
そして和宮が悲しく江戸に下るシーンが登場する。公武合体派のテロを避けるため、天下の王道である東海道を使わず、さびしい木曽路を行く和宮。 

・動乱(Vivace 175小節~231小節)
それでも騒乱は収まらず、政局は猫の目的に変動する。そして薩長同盟という幕末におけるコペルニクス的転回の実現により… 

・ヤパンマルス(官軍行進曲)(alla marziale 232小節~277小節) 
やがて錦の御旗を得た薩長軍が官軍として遠くから行進してくる。ピアニッシモで登場した官軍は、次第にクレッシェンドして晴れやかに明治維新に至るのである。

・維新なる(王政復古)(alla marziale ~ Vivace 278小節~316小節) 
ついに王政復古が実現。行進曲は次第に高揚し、最後はVivaceで派手に終曲する。

ただ…明治維新は、わが国にとってはエポックメーキングなホームラン事業だったが、さて和宮の立場ではどうであろうか。
彼女は手放しに喜べるのだろうか。嫁ぎ先である徳川(=幕府軍)が最後には賊軍の汚名を着せられてしまったのである。 
この曲が単に和宮の立場を歌った曲だとすれば、歓喜の終曲は不自然とも言える。 
しかし、この疑問に対しては、こう整理してはどうか。
明治維新の実現には、幕末の混乱に翻弄されながらもわが国のことを思い、公武合体に応じ、時の将軍・家茂を愛し支え、後には朝廷に嘆願行動を起こして江戸城の無血開城を果たした、皇女和宮の尽力があったからこそである。 
だからこそ、彼女の功績を高らかに讃えたフィナーレ(=維新なる「王政復古」)が用意されているのだ。
その考え方の裏づけとしては、この部分の主旋律は和宮をイメージする越天楽のパラフレーズが使われていること、及び官軍を示すヤパンマルスのテーマは再高音部で奏でられ、むしろ味付けとして同時に使用されていることである。
2つのテーマが一緒に演奏される様子は、アルルの女第二組曲におけるファランドールを思わせる作曲技法であり、本曲の聞かせどころである。

■皇女和宮の一生(1)■ 

和宮の一生を、複雑な歴史的事件を極力省き、シンプルに語ってみることにする。
皇女和宮は、現在放映されている大河ドラマ「篤姫」では掘北真希が演じている。
初めは右も左もわからない御所のお嬢様という感じだったが、段々と意思を持ちはじめた様子だ。
さて、皇女和宮は、1846年に仁孝天皇の第八皇女として生まれた。
仁孝天皇は第120代天皇。 
ちなみに現在の今上天皇は125代なので、幕末はほんのちょっと前の出来事にすぎないというのがわかる。
生母は典侍の橋本経子で、後の観行院である。
大河ドラマ「篤姫」では若村真由美が演じている。 
母として娘のことを一途に思い、その思いが昂じて大奥側と対立しているが、和宮の立場が変わってくることにより、観行院の立ち振る舞いも今後変化してくると思われる。 典侍は律令制における官職で、いわゆる女官。
天皇の寵愛を受けるポジションなので、皇子女を生むことが多かった。
ゆえに、典侍はそれなりの身分の家から出ていたようである。
仁孝天皇は、観行院をはじめ多くの后妃との間に子どもを儲けたが、成人したのは姉の敏宮と兄(後の孝明天皇)、そして和宮の三人のみであった。
そして、和宮が生まれた時は、父はこの世になかったのである。

和宮は6歳の時、早くも有栖川宮家の長男熾仁親王と婚約した。
婚約後は、いつも有栖川宮家に出入りしていたようである。
熾仁親王は婚約したときは17歳。6歳の相手方では幼すぎるが、孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。 
和宮は小柄でとても可愛らしい少女だったらしい。 
記録によれば、1メートル43センチ、34キロくらいだったとのこと。 
おそらく、父のない和宮は、うんと年上で頼りがいのある婚約者との結婚を夢見て、御所で平和に過ごしていたことだろう。
ところがところが、幕府と朝廷の公武合体政策により、この婚約が破談されてしまったというわけだ。

 

尊王攘夷をスローガンとして倒幕を目指す者を抑えるには、 「公武合体」すなわち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。
もともとは井伊大老の発案だったが、彼が安政の大獄で殺害された後、事態は悪化するばかり。 
そこで、1860年4月、幕府から朝廷へ正式に徳川第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出されたのである。
兄である孝明天皇からこの話を聞いた和宮はさぞかしびっくり仰天したことに違いない。 
当然、和宮は拒絶した。
孝明天皇も、妹である和宮を思い、結婚反対の旨を幕府に伝えた。 
しかし、最後は和宮は承諾したのである。

承諾した理由は色々あるだろうが、直接的には次の事情によるものだろう。 

・孝明天皇が代替案として生まれたばかりのわが子を差しだそうとした 
・それがだめなら退位する意向を示した 
・日本のためになるのならと決意した 

当然、婚約者であった有栖川宮家の長男熾仁親王も大きく当惑したに違いない。
しかし、彼はしばらくして、歴史の檜舞台に登場する。
そして立場的に、和宮と対峙することになる。

  落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ

和宮は婚約者と別れ、ひとり寂しく京都を離れ、見たこともない、御所では恐ろしい場所だとされた江戸の地に出向いたのである。

■皇女和宮の一生(2)■  

「寂しい都落ち」 

江戸時代初期に幕府が整備した五街道のうち、東海道は京都と江戸を結ぶ重要な役割を果たしていた。
参勤交代の大名行列はもちろん、江戸時代の中期以降は一般の旅人も増えており、東海道は大いに賑わっていた。
ところが、公卿や女官などを従えた和宮の一行は中山道を江戸に向かったのである。
これは、この縁組に反対する過激派の浪士などが和宮奪回を企てており、和宮を京都に返すために道中を襲うという噂があったため、東海道を避けたためと言われている。 御輿入れの行列は50kmに及び、世界でも珍しい規模。 
総費用は今のお金にして約150億円かかったらしい。
もちろん費用は幕府持ちなので、当時の幕府の台所事情からすると相当な出費だったが、その分幕府の必死さが窺われる。 
ただ山間を歩く中山道は、和宮の心中を思うと、ロケーション的にも寂しかったに相違ない。

「大奥での確執」 

この辺は大河ドラマ「篤姫」でも興味深く描かれている。
降嫁するにあたっては、異母姉である淑子内親王の御殿の建設や、降嫁した後も御所風の生活を守ることなどを幕府側に約束させていた。
しかし、御所風の生活については大奥側に伝えられていなかったため、和宮側は激怒。 
確執の原因のひとつになったのである。 
また、身分の違いによるちぐはぐな対応もあった。 
1862年2月に、和宮と家茂の婚儀が行われたが、和宮は征夷大将軍よりも高い身分であるため、嫁入りした和宮が上座、嫁をもらう立場の家茂が下座という、前代未聞の形になった。 
さらに和宮は、将軍の正室の呼び名である「御台様(みだいさま)」を拒否して「宮様」と呼ばせた、などのエピソードもある。
他にも風習の違いは枚挙に暇がなく、御所方の宰相典侍である庭田嗣子は、ひとつひとつ食い違う風習への対応に苦慮したらしい。 
この庭田嗣子は、今回の大河ドラマでは中村メイコがコミカルに演じている。
大御台所である天璋院(篤姫)にとってみれば、さぞかし胃の痛むことであっただろう。

「将軍家茂とは仲良しになった」

家茂、和宮は同い年で、結婚したときは共に16歳。
周囲の心配をよそに、二人はうまくいったようである。 
大河ドラマでは、家茂の人物像はナイス・ガイで描かれている。
実際、見目麗しく気品を備えた初々しい青年だったらしい。
政治的にも、家茂は自分の置かれた立場を理解し、対外的にも極めて難しい舵取りを迫られた時勢の中、彼なりに精一杯がんばっていたと推察される。 
和宮は同じ年代で苦難に耐えている夫を応援し、家茂は馴れない異郷へ送られてきた花嫁に対して憐憫の情を示したのであろう。

「和宮替え玉説」

興味深い話がある。
専門家によると、江戸での和宮の歌風は、京都にいた時と比べ「雅」がまるで感じられず、まるで別人のようだとのこと。 
また、和宮の実際の素顔を知っていた数少ない民間人、島田正辰は暗殺されたらしい。 
そこで和宮替え玉説が出てくるのである。これには、
A 和宮は実は自害し、替え玉が建てられていたという説 
B 京都を出立する時点で、替え玉にすり替えられていたとする説 
がある。
この替え玉説については、有吉佐和子がB説をモチーフに小説「和宮様御留」を書いている。実に悲しいストーリーだ。 
B説の論拠は次のとおり。
・前述した和歌の作風。
・ゆかりのある地方で語り継がれている。 
・和宮は足が不自由だったとされているのに、遺体の足には異常がないのに対し、左手首が発見されなかった。
・肖像画によれば手首がなかった可能性は高いが、それでは京都でやったことになっている茶道の稽古ができない(もっとも、この説は明治になって暴漢から襲われ欠損したということも考えられるが)。 
・和宮の遺骸の遺髪と、家茂の内棺に納められた遺髪が一致しない。 
などなど、和宮には実に謎が多いのである。

■皇女和宮の一生(3)■  

「家茂との別れ」

決死の覚悟で家茂に嫁いだ和宮だが、歴史の大きな流れを食い止めることはできなかった。
公武合体策は結局は実らず、むしろ倒幕運動は激しさを増していった。
家茂は、この状況を打開するため、結婚した年の翌年3月と、その次の年の正月の二度に渡って将軍として自ら京都に向かった。
この行動は先例がなかったわけではないが、攘夷が不可能なことを説得するために将軍が自ら天皇に出向くという捨て身の事実は、当時の幕府の地位の大いなる低下を物語っている。
さらに、家茂は長州征伐のため大坂へも赴いたが、持病の脚気のためついに病床についた。 
おそらく相当なプレッシャーが彼にかかっていたと思う。心労が大きな原因ではなかろうか。
心配した和宮は、医者を派遣したり、衣類や見舞の菓子などを届けたが、その甲斐もなく家茂は20年の短い生涯を大坂城で終えたのである。 

「江戸城に残った和宮」 

江戸には家茂の遺骸とともに、西陣織が届けられた。
家茂の長州征伐出立の際に、和宮が西陣織のお土産をねだったためだと伝えられている。
もはや形見となてしまった西陣織を見て、和宮はどんなに嘆き悲しんだことであろう。
さて、家茂が亡くなった後は、和宮には京都に帰る選択肢があった。
しかしながら、和宮は結局江戸城にとどまり、その年の暮れに薙髪して静観院宮となったのである。
この辺の和宮の心象風景はさだかではないが、大好きだった家茂を一生かけて弔っていこうと考えたのではないかと思う。 

「時代は倒幕へ」

ここで、時代背景のおさらいをしてみたい。 
これまで述べてきたように、徳川幕府は、攘夷実行を約束することで孝明天皇の妹の和宮を14代将軍家茂夫人として降嫁させ(公武合体)威信を保つ策を講じてきた。
孝明天皇は大の異国嫌いだったので、京都の尊皇攘夷派により幕府に対する約束に基づく攘夷決行を強く求めてきたのである。
そこで徳川慶喜が家茂将軍の名代として京都へ赴き、大政委任の根回しを行ったが、尊皇攘夷派は天皇による王政復古を目指してきた。 

「朝敵になった幕府」

八月十八日の政変で薩摩藩が会津藩と結託して長州藩や尊攘派の公家らを追放し、かつての公武合体派の一橋慶喜、京都守護職松平容保、松平慶永、土佐藩主山内豊信、宇和島藩主伊達宗城、島津久光らによる参与会議が成立させた。 
その後、幕府のプロデュースにより、朝敵とされた長州藩の征伐(長州征伐)が行われた。
しかしながら、孝明天皇が死去すると潮目が変わった。
長州は秘密裏に薩摩と同盟が結び、幕府が不利な立場に追い込まれていく。 
結局、現行の幕府体制を維持することが不可能となり、土佐藩などの主張で幕府が朝廷に政権を返上し、諸侯会議により幕政改革を推進する公議政体論が主張され、15代将軍となった慶喜により大政奉還が行われた。
ところが、王政復古の大号令が行われ、小御所会議で「討幕運動」が主流となったのである。
結局、幕府は朝敵となってしまった。 
まるでオセロゲームである。

「和宮が徳川家と江戸城を死守」

いよいよ、朝廷軍が江戸城を攻めるという際に、和宮は徳川家のために尽力した。
新しく将軍となった徳川慶喜を追討する官軍の総帥が、和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王であったのも不思議な巡り合わせである。 
鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に逃げ帰ってきたとき、和宮は朝廷に捨て身の歎願を行っている。
「もし官軍が江戸城を攻めるのであれば、自分は徳川と運命を共にします…」
和宮の機転により、江戸城の無血開城を果たすことができた。
さらに和宮は、篤姫と協力して慶喜の助命をも嘆願し、徳川の家名存続を実現させたのである。

「江戸無血開城の後の和宮」

1868年4月、江戸城を出た和宮は明治2年から明治7年までの5年間、京都に住んだ。 
しかし、その後和宮は東京移住を決心し、明治7年に東京に到着、麻布の御殿に入り、ここで3年有余を過ごした。 
和宮は32歳になった頃より脚気の病になり、静養のため明治10年から箱根の「元湯」で過ごしたが、発作のためこの地で他界した。
和宮は東京で篤姫と外食をしたり、それなりに自由をエンジョイしていたようである。
平穏な生活が約束されていたのに、時代の奔流に巻き込まれてしまった和宮。 
早世したことも考えれば、まさに悲劇の皇女だったと言うことができる。 


※第66回定期演奏会で本曲を取り上げるにあたって、2008年10月に執筆したものです。

bottom of page