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スカンジナヴィア組曲論

 

1 はじめに


マンドリンオリジナルは、通常は一般の人たちには知られていない。
故中野二郎氏は、イタリアやドイツなどで作られたマンドリンオリジナルの普及に長年務めてきた第一人者で、彼の紹介した楽曲は、わが国のマンドリン楽団で、現在においてもあまねく演奏されているところである。
今回、論文として取り上げる「スカンジナヴィア組曲」も、中野二郎氏が紹介した楽曲で、美しいメロディーラインと叙情的な曲想を持ち、マンドリン曲の中でも佳曲に含まれる作品だと思う。
氏が紹介した数十年前から今日にかけて、時折どこかの演奏会で耳にすることができたものの、残念ながら、近年では取り上げる楽団が減ってきているようである。
故中野二郎氏によれば、本曲の背景や作曲者について、紹介当時は詳しいことは何もわからないとのことであった。
そこで、本稿においては、スカンジナヴィアの地理や歴史などを調べ、本曲の背景について可能な限り考察してみたいと考えている。
なお、本曲の基本データは次のとおりである。欧名はドイツ語で、各曲タイトルの翻訳は故中野二郎氏が行ったものと思われる。

・曲名 スカンジナヴィア組曲(Skandinavische Suite)
      第1曲 山頂にて(Hoch auf dem berge)
      第2曲 平原にて(Auf dem Lande)
      第3曲 ヴァイキングの登場(Einzug des Vikings)
      第4曲 妖精の踊り(Troll-Tanz)
・作曲 フレデリクセン(Emil Juel-Frederiksen)
・編曲 エルドレン(Hermann Erdlen)

2 作曲者について

前項で述べたとおり、本組曲の作曲者であるフレデリクセン(Emil Juel-Frederiksen)については、故中野二郎氏によれば詳細は不明とのことであった。
しかし、インターネットが普及した現在、検索をかければ、ある程度のことはわかるのではないかと考え、いろいろとフレデリクセンについて言及しているサイトを探してみたが、その名前は、本曲関連以外では日本語のホームページには全くヒットしない。今でも日本では、全く無名の作曲家であることがわかる。
それどころか、英語のホームページにもほとんど登場しないので、名前がヒットするドイツ語か北欧の言語による複数のホームページを辛抱強く調べてみることにした。
その結果、次のことがわかってきた。
・フレデリクソンはデンマークの作曲家である。オルガン奏者でもあったらしい。
・1873生まれ、1950年没。
・スカンジナヴィア組曲の作品番号は77番で、他にも色々な作品を残している。
・ドイツやデンマークのサイトでは楽譜が販売されている。
・本曲はもともと1912年に作曲された管弦楽で、ドイツ人のエルドレンによってマンドリン合奏曲に編曲されたと思われる。
なお、編曲者のエルドレン(Hermann Erdlen)も日本では無名のようだ。インターネット上で検索をかけても、スカンジナヴィア組曲関連の他は、全く日本語のHPに登場しない。だがドイツのHPではその名前をかろうじて見ることができる。
それによると、オーケストラ曲や合唱曲、アコーディオン音楽など手広く編曲や作曲を手がけているようである。
 作曲者についての記述についてはこの程度にとどめ、次稿からは、本組曲のテーマである「スカンジナヴィア」について、地理・語源・歴史的観点から考察をしたい。

3 スカンジナヴィアの地理と語源

(1)気候と地政

スカンジナヴィアの気候は東西でまったく異なっている。半島を二分するスカンジナヴィア山脈を隔てて西部は温暖な地域であるが、バルト海に面する東部は、冷涼とした気候である。
このため、地政学上でもまったく東西で二分されている。スカンジナヴィア西部のノルウェーとデンマークは古代より海洋国家であり、海との繋がりが深い。 一方、東部のスウェーデンは陸との繋がりが深く、大陸国家を築いてきた。スウェーデンと繋がりが深いフィンランドでも同様である。
地政学的には、デンマークを海洋=帝国型、ノルウェーを海洋=属国型、スウェーデンを大陸=帝国型、フィンランドを大陸=属国型と分類される。

(2)スカンジナヴィアの語源

「スカンジナヴィア(Scandinavia)」の語源は、大プリニウス(ローマ帝国時代の博物学者)がまとめた博物誌に、ラテン語で記述された単語だと言われている。それは文献で見られる最古のものらしい。
この記述によれば「スカンジナヴィア」は「海峡に位置した23の島からなる海域」とされ、ノルウェーとスウェーデンの南部沿海部も含んでいたようである。
 つまり、古代地域名としてのスカンジナヴィアは「諸島だと誤認されていた時期の、スカンジナヴィア南域」にあたることがわかる。ローマ時代には、スカンジナヴィアが大きな半島であることが知られておらず、諸島だとイメージされていたらしい。
一方、西ゲルマン系諸語(英語やドイツ語)と北ゲルマン系諸語(デンマーク語やスウェーデン語)が明瞭に分化していなかった時期の古ノルド語の「暗い島」を語源とする説もある。暗いはskad、島はaujo。この地帯の黒々とした針葉樹林の景色や日照時間の短さを象徴している言葉であるが、これには異論もあるとのことだ。
もうひとつの説としては、西暦550年頃に、ゴート人でアリウス派キリスト教の聖職者だったヨルダネスが「ゴート人は海の向こうのスカンザ(Scandza)から来た」と伝えていること。この「スカンザ」という異名は、古代地域名としての「スカンジナヴィア」とほぼ等しかったようである。この記述は、「ゲルマン人北方起源説」の論拠とされ、その後長く影響力を持っていた。
もちろん、その説は間違いのようで、現在では、ゴート族(東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族)は東方から西ヨーロッパに移動したことが、考古学的もほぼ確認されている。

(3)構成国家

「スカンジナヴィア」は、ヨーロッパ北部のスカンジナヴィア半島周辺の地域を指し、ここに位置する国々をスカンジナヴィア諸国という。歴史的には、スカンジナヴィアは三国(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク)を指し、フィンランドは含まれない。
昔、フィンランドはスウェーデンの一地方だったため、「北欧」と言えば三国の領域だった。ところが、ナポレオン戦争によりスウェーデン領のうちフィンランド地方が切り離されてロシアの植民地になったため、「北欧」に変わって三国を示す新しい呼び名が必要になり、スカンジナヴィアという単語がこの役割を担うこととなったとのことである。
しかしながら、現在では北欧人の間においても、「北欧」と「スカンジナヴィア」を使い分ける人は多くない。国際的には、ドイツ語圏ではフィンランドを含み、英語圏ではそれに加えてアイスランドを含む。日本では、一般的には北欧諸国はスカンジナヴィア諸国と同一視されているようである。

ア スウェーデン

スカンジナヴィア半島の中央と東側に位置しており、半島の西部は標高2,000m程度のなだらかなスカンジナヴィア山脈が南北に連なっている。ボスニア湾やバルト海に沿って平野部はあるが、それほど広大ではない。南部を除き冬は厳しく、夏も全般的に冷涼としている。湖沼が多く、肥沃な地は少ないため、中部から北部は農業には適さず酪農が主業となっている。
古代はヴァイキングとして活動したスウェーデンは、13世紀頃に現在のフィンランドを含む地域を統一。14世紀末にはデンマーク主導のカルマル同盟を隣接のノルウェーと結んで同君連合としたが、16世紀中頃に同盟から離脱、王政によるバルト帝国を建国し隆盛を誇った。その後はロシア帝国などとの戦争に敗れ、フィンランドを手放すなど、小国化に向かった。
20世紀初頭には社会民主労働党政権となり、以降のスウェーデンは中立・福祉国家路線を取っているが、文化や近代産業も盛んである。
特にスウェーデンは、ポピュラー音楽が盛んで、男女4人グループの「ABBA」が1970年代後半から1980年代前半に「ダンシング・クイーン」などで世界中を席巻した。70年代後半のヨーロッパでは、ABBAの大成功に刺激されたアーチストを大勢輩出したと言われている。
 また、乗用車で有名な「ボルボ」はスウェーデンで誕生し、安全装備の開発、事故調査の実施と設計へのフィードバックを行うなど、「世界一安全なファミリーカー」と高い評価があった。現在は業界再編により乗用車部門がフォードに譲渡され、フォード・グループの1部門となっている。
 さらに、世界で店舗展開する大手家具店「イケア(IKEA)」もスウェーデンが発祥である。家具にはスウェーデン語の名前がついているのが特徴で、郊外に大規模な店舗を構える方法で展開している。日本では、船橋、横浜、神戸、大阪などに店舗があり、日経リサーチが2008年9月と10月にアンケートした首都圏の人気商業施設ランキングによると、主婦層の人気の割合が最も高いのは「IKEA港北」(神奈川県横浜市)だったとのことである。

イ ノルウェー

ノルウェーはスカンジナヴィア半島の西岸に位置し、国土面積は日本とほぼ同じである。北極海とノルウェー海に面し、海岸にはフィヨルドが発達している。
フィヨルドとは、氷河による浸食により複雑な形状をなしている湾のことであり、ノルウェーはもちろん、グリーンランドやアイスランド、あるいは南半球のニュージーランドや、チリ・アルゼンチンにも存在しているが、原語はノルウェー語である。「トロンヘイム・フィヨルド」などは、観光名所として有名である。
国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、暖流の影響により、不凍港を有するほど温暖である。この為、バルト海沿岸よりもノルウェー北部は比較的穏やかな気候となっている。なお、陸地の殆どをスカンジナヴィア山脈が占めるため、平地はほとんどない。
ノルウェーは、スウェーデンに比べて苦難の歴史を歩んだ。9世紀からのヴァイキング時代は隆盛を誇ったが、黒死病の大流行などで王家が途絶え、デンマーク配下となり独立を失い、さらに19世紀にはスウェーデンに引き渡されている。20世紀初めにようやく独立が認められた。
第一次世界大戦では中立国だったが、第二次世界大戦ではドイツによる侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、連合国と歩調を合わせ、実は戦争末期には、対日宣戦布告がなされている。
 ノルウェーは、偉大な画家「ムンク」を生み出した。彼の代表作「叫び」は、スカンジナヴィアの気候風土を背景に、現代人の抱える「存在の不安」を見事に描き表していると言われている。

ウ デンマーク

デンマークはユトランド半島と、古都オーデンセのあるフュン島や現在の首都コペンハーゲンのあるシェラン島などの約500の島(そのうち76に人が住む)で構成された、九州より少し大きい程度の国である。多くの島が橋で結ばれていて、シェラン島とスウェーデンもエーレスンド橋で繋がっている。山のない国で、最高地点は173m。北大西洋海流の影響で気候は穏やかで、温暖な冬と涼しい夏がある。
デンマークには紀元前12000年ころから人が住み続けていると考えられている。8世紀から11世紀にかけてはヴァイキングとして他のヨーロッパ諸国の侵略や貿易を行い、中世はスウェーデンやノルウェーとカルマル同盟を築くなど、隆盛を誇った時期がある。だが、後にスウェーデンがカルマル同盟を脱退し、数々の戦争に敗れてノルウェーも手放すなど、小国化を余儀なくされた。
しかし、ノルウェーやギリシャの独立の際にはデンマーク王家から人を迎えるなど、由緒あるステイタスを持っている国である。
絵本のように美しいファンタジックな国土に誇りを抱く人々は、酪農や陶器・家具などの産業だけでなく、観光産業にも熱心に取り組んでいる。
文化面では、マッチ売りの少女などの童話でおなじみのアンデルセンや、実存主義の先駆けとして名高い哲学者のキルケゴールも輩出した。

エ フィンランド

地理的にはスカンジナヴィア半島には含まれない。国土の大半は平坦な地形で、氷河に削られて形成された湖が無数に点在しており、植生はタイガと地衣類が多く、森林には粘菌が多様に生息している。国土の大半が寒冷な気候であることから、首都のヘルシンキを始めとする規模の大きな都市はその多くが国の南部に偏在している。
フィンランドはアジア系民族「フィン人の国」という意味で、フィンランド語は他のスカンジナヴィア諸国の言語とまったく異なっており、文法的にはむしろ日本語に近い。
西欧・東欧の狭間にあって国家形成から立ち遅れていたフィンランドは、12世紀に征服されたスウェーデン王国を宗主国としていた。しかし数々の戦争の結果、19世紀にはロシアに割譲され、1917年のロシア革命の混乱に乗じて、ようやくフィンランドは独立を宣言したのである。
世界的な音楽家を数多く輩出しており、その中でも、国民的英雄であるシベリウスが有名である。「フィンランディア」が作曲された1899年当時は帝政ロシアの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていた。当初の曲名は「フィンランドは目覚める」で、ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話である。1941年には、中間部の荘厳なメロディに歌詞がつけられ、シベリウス本人が合唱用に「フィンランディア賛歌」として編曲した。当時はスターリンが支配するソビエト連邦の露骨な侵略があり、国家存続の危機にあったフィンランドの人々を奮い立たせた反戦歌だった。現在も国歌に次ぐ第二の愛国歌として広く歌われている。
また、フィンランドでは、湖上の城で開催されるオペラ・フェスティバルや教会での演奏会、クフモ室内楽音楽祭など、数々の音楽鑑賞イベントが行われており、最近ではエアギター世界選手権が話題になっている。
さらに、日本でも有名な「ムーミン」の作家トーベ・ヤンソンの母国でもある。ヤンソンは画家でもあり、ムーミンの原型となるキャラクターは小説執筆以前にもたびたび描かれていたが、小説として初めて登場するのは1945年以降である。子ども向けの作品ではあるが、グリム童話などのヨーロッパ系の童話によく見られる、残酷で不条理な内容も頻繁に登場しており、スナフキンなどの登場人物に哲学的・思索的な発言をさせている。

4 スカンジナヴィアの歴史

 前項で、構成国家別に簡単な歴史に触れたが、ここでは、スカンジナヴィア全体を概観して、その歴史を整理してみたい。

(1)先史時代

紀元前7千年頃には、マグレモーゼ文化と呼ばれる石器文化が、すでにデンマークやスウェーデン、ノルウェーにあったと言われている。
先史時代のスカンジナヴィア人が話した言語は不明であるが、紀元前3千年の終わり頃は、彼らはインド・ヨーロッパ祖語を話したという説を唱える学者が多い。
 ヨーロッパの青銅器時代文化には、いわゆるスカンジナヴィア人はヨーロッパ人と貿易を通じて接触しており、遺跡には羊毛や木材を材料にしたもの、および中央ヨーロッパから輸入した青銅や金製の遺物が豊富で、現在でもよく保存されている。
先進的な文明も勃興し、北欧の青銅器時代は気候が温暖で、人口も比較的集積していたが、その後の気候の寒冷化により終わりを告げた。この気候変動ゆえにゲルマン族は大陸ヨーロッパを南下したらしい。
やがて文化は、北欧青銅器時代から、ローマ鉄器時代に移行した。多くのゲルマン人はかなり早い時代からローマ帝国の文化や軍と接触していたが、スカンジナヴィア地域はローマ人にとって遠く離れた場所で、いわゆる僻地であった。そのため、時代の中心を担っていたローマ人は、一部の部族について少し触れている以外は、スカンジナヴィアについての記録をほとんど残していない。
しかし、スカンジナヴィアには外部からコイン、食器類、青銅レリーフ、武器など多くの物が持ち込まれており、特に金属性の物品や土器には明らかにローマ様式のものが見られるとのことである。
そして、ローマ帝国の衰退期以降はゲルマン鉄器時代を経て、時代はヴァイキングの出現に向かっていく。
ヴァイキングの時代は、鉄器時代の後半期と一致しており、スカンジナヴィア人が、初めて世界史の表舞台に躍り出てくる時代である。

(2)ヴァイキングの時代

元々通商・貿易を業としていた民族であるヴァイキングは、中世のヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東を中心とした異民族との交流を行っており、航海術だけではなく、地理的な知識・工業技術・軍事技術においても、周辺のヨーロッパ諸国を凌駕していた。
その結果、富を求め近隣諸国を侵略し、ヨーロッパ諸国沿岸はもとより、北アメリカのニューファンドランド地域にも達した。
通説によると、ヴァイキングの時代の始まりはブリテン島のリンデスファーン修道院を略奪した793年で、イングランド侵略の失敗とノルマンコンクエストの1066年が終わりだとされている。
 スカンジナヴィアの地にヴァイキングが出現した理由のひとつに、人口の過剰が原因だとする説がある。スカンジナヴィアは寒冷な気候のため、土地の生産性はきわめて低く、人口の増加に比して食料が不足していたというのである。
山がちのノルウェーには平地は少なく、海上に乗り出すしかなかった。デンマークには平坦地はあるものの、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。
そういった事情から、豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になった、という仮説が有力と考えられたこともあった。しかし生産性が低く土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
一方、能力を理由とする説もある。当時のヴァイキングの卓抜した航海技術に対して、他の民族は対抗できなかった、というものである。歴史的に見ても、域外進出はあらゆる民族に共通しており、アフリカで発祥した人類が、南欧から北欧へ、あるいは、アジアや北米へ進出した。このような域外進出は、いつの時代、どの民族、どこの地域でも見られることで、原因は必要ではなく、その能力があるかどうかの問題だという考え方である。
どうやら、この考え方が一番正しそうに思える。世界の歴史を見ると、どの国にも主役になった時期がある。
ヴァイキング時代の終焉は、スカンジナヴィアのキリスト教化によるところが大きい。ヴァイキングの共同体は、キリスト教への適応によりヨーロッパ大陸の一層大きな宗教的、文化的枠組みへと吸収されていった。
デンマークは980年頃にキリスト教を国教とし、ノルウェーでは後に洗礼を受けた王が即位した995年以降、ほとんどイングランドの宣教師によってキリスト教への移行が成された。キリスト教化の政策をとったことで、伝統的なシャーマニズムは時代に取り残され、旧教は迫害の対象になった。
スウェーデンのキリスト教化は時間を要したところである。古来の慣習に則った宗教行事は、11世紀の終わり頃まで地方の共同体で普通に行われ続けていたが、11世紀の内戦により、初めて国内における古来の宗教を執り行う勢力とキリスト教を支持する勢力の対立が浮き彫りになり、12世紀中頃にキリスト教勢力は大勝利をおさめ、1164年、ついに異教の中心地に大教会が建設されたのである。

(3)中世~近世

スカンジナヴィアの諸国はヴァイキングの時代を終え、相互に連携することにより地域の発展を目指していくことになり、歴史的に初めて、「カルマル同盟」により連携の仕組みを構築した。
まず、デンマークが同盟からの初期の果実を得たが、その後、同盟を離脱し帝国化したスウェーデンが大国となる。しかし、そのスウェーデンもやがてバルト海の覇権をロシアに取って代わられるなど、興亡と混乱の時代が続いていく。

ア カルマル同盟

カルマル同盟は、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンが単独の君主の下で連合する一連の同君連合(1397~1520)である。盟主はデンマーク王母マルグレーテであった。
デンマークは異国への出兵と失敗を繰り返したが、その費用負担のためスウェーデンやノルウェーに増税を課すとともに、独自の海峡税が莫大な財政収入を生み、デンマークは北欧の強国として成長した。また、海軍も強化し、宿敵であったハンザ同盟を破って、バルト海の盟主になったのである。
しかしスウェーデンでは独立へ向けた反乱も始まっており、次第にスウェーデンの分離は明らかな事態となっていった。

イ バルト帝国

スウェーデンは王家が断絶し、カルマル同盟に組み込まれたが、1523年に同盟から独立した。その後1558年に始まったリヴォニア戦争で得たエストニアを足掛かりにバルト帝国を築いていく。
17世紀に入ると、スウェーデンはグスタフ2世アドルフによってヨーロッパ史上に北方の大国として君臨する時代を迎える。
彼はまずライバルであるデンマークを退け、ポーランドのリヴォニアを領有した。また、ロシアの内戦に介入してカレリア、イングリアを獲得した。更にドイツ三十年戦争に介入し、プロテスタントの盟主にもなるとともに、ドイツにも領土を得て、スウェーデンは名実共にバルト帝国を築き上げた。
グスタフ2世アドルフの死後も、スウェーデン史上最大の名宰相と言われているオクセンシェルナ、後に即位したカール10世と名君が続き、デンマークを屈服させ、ノルウェーの一部を奪って、バルト海沿岸国(リヴォニア、エストニア)の支配権を確立するなど、スウェーデン王国の絶頂期を迎えた。
カール10世の死後は、膨張政策をやめたため平和が戻った。デンマークからの復讐戦にも事実上勝利し、国内的には名実共に絶対主義を完成したのである。

ウ デンマーク=ノルウェー二重王国

1523年、スウェーデンはカルマル同盟から離脱し「スウェーデン王国」が成立させたため、デンマークはノルウェーの支配を強化し「デンマーク=ノルウェー二重王国」として再出発する事となった。
二重王国とはいっても、ノルウェーは事実上デンマークの属国とされた。一時はノルウェー人によるナショナリズムの昂揚もあったが、軍事力も無く、経済的な自立も叶わぬままデンマークの庇護を受け続けると言う状態であった。この経済的な従属関係は、ノルウェーがスウェーデンに引き渡された19世紀まで約400年も続き、ノルウェーは、19世紀後半にヨーロッパ第三位の海運国に成長することにより、ようやく自立することができた。
このデンマーク=ノルウェー二重王国は、やがてナポレオン戦争に巻き込まれ、イギリス・スウェーデンの対仏大同盟国の攻撃のもとに屈した。デンマークはノルウェーを1814年のキール条約によって失い、カルマル同盟以降の枠組みは完全に消滅する。

エ 大北方戦争

大北方戦争は、スウェーデンと、ロシア帝国・デンマーク=ノルウェー二重王国・ザクセン=ポーランドの同盟との間で、1700年から1721年にわたって行われた戦争である。
当初はポーランドを傀儡国家とするなどスウェーデンが優位であったが、その後の海戦でロシアが優位を確立し、結局、ロシアがスウェーデンに代わってバルト海の覇権を握り、ヨーロッパの列強の一員となった。
この戦争では、デンマークは現状維持を保ったが、スウェーデン、ポーランドが没落し、ロシアがバルト海のみならず、勢力が北欧、東欧まで広がる覇権国家となった。
ただ、スウェーデンはバルト海の覇権を喪失したものの、とりあえず何とか、フィンランドを含む領地は維持されたのである。

(4)近代~現代

ア フィンランドの割譲とノルウェーの独立

スウェーデンは、当時隆盛を誇っていたフランス・ナポレオンに対抗するために、対仏大同盟に参加していたが、ナポレオン戦争に敗れたため、ロシアからフィンランドを奪われてしまった(1805)。
一方、デンマークは、フランスと同盟を結んでいたため、港をイギリス海軍に封鎖されるなど、紛争に巻き込まれた。結局、イギリスとデンマークの間の戦争となり敗北。ヘルゴランド島をイギリスに、長年支配してきたノルウェーをスウェーデンに割譲することとなった(1814)。
その後、フィンランドを奪われたスウェーデンは、ロシア帝国と戦争(1808~1809)したが敗北し、スウェーデン領の東部地域を形成していたフィンランドは、ロシア帝国内の同君連合として自治権を持つフィンランド大公国として、1917年のロシア革命までロシア帝国の構成国家とされた。
ノルウェーはデンマークからスウェーデンに割譲された時、ノルウェー人は独立を願い、憲法の制定や国王の選出を行った。しかし、スウェーデン及び列強はノルウェー独立の正当性を否定し、軍事行動を開始した。
ナポレオン側についていたスウェーデンは兵力・装備・訓練のいずれにおいても勝っており、短い戦闘の後、スウェーデン軍が決定的な勝利を収めたのである。
和平交渉の結果、スウェーデンはノルウェー王国の独立を受け入るが、同君連合、いわゆる「スウェーデン=ノルウェー連合王国」とすることで同意した。

イ 汎スカンジナヴィア主義の昂揚と挫折

汎スカンジナヴィア主義とは、北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)の連帯と統一を目指す思想運動である。
欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムが昂揚した。
1829年に行われた文芸運動に端を発し、北欧三ヶ国の知識人、学生らによる社会的・政治的運動へと拡大して行った。
スウェーデン王オスカル1世は、積極的に支持し、デンマーク王フレデリク7世も同調。
急速に実現へ向けて動き出すことになる。
急速に政治的な運動となり、フィンランド大公国のヘルシンキ大学の学生が参加し、ロシア帝国がこれに抗議するという事態となった。
国際情勢は急激に悪化し、ヨーロッパに勃興する帝国主義の脅威に対抗するため、北欧の団結と統合が真剣に唱えられる様になった。
こうした北欧諸国民の意を組む様に、スウェーデン王は、汎スカンジナヴィア主義の牽引者となり、デンマーク国王の合意を経て、スウェーデン・デンマーク王室主導の「スカンジナヴィア連合王国」も模索された。
これはまさに、中世以来の「カルマル同盟」の再興の意味を持っていた。
しかし、次第に国際的に先鋭化するデンマークと足並みがそろわなくなり、やがて汎スカンジナヴィア主義運動は消えたのである。
厳しい国際社会の現実は、北欧統一の夢の前にはあまりにも大きな壁であった。
ただ、この帰結は、北欧各国の自立化へと向い、重武装中立主義へと変遷して行った。
1905年のノルウェー独立にもつながっていった。

ウ 二つの世界大戦

第一次世界大戦は、スカンジナヴィア3国はともに中立を保った。その間、スウェーデンとデンマークは社会民主主義政権、ノルウェーはノルウェー労働党の主導により、20世紀の初めから半ばにかけて社会福祉国家が築かれている。
第二次世界大戦の開始が近くなると、連合国と枢軸国は、スカンジナヴィアに敵の戦力が現れることに脅威を感じていた。イギリスは、ドイツと同時にソビエトも脅威に感じており、ドイツは、イギリスによる侵攻を恐れていたのである。特にドイツにとっては、スカンジナヴィア地域がドイツへの直接侵攻のための足がかりに利用されるだけでなく、スウェーデンから輸入していた戦略物資である鉄鉱石を失うことに対する恐れがあった。そのため、ドイツは、冬季に鉄鉱石の輸出に使用するノルウェーの不凍港ナルヴィクを確保するため、ノルウェーと、その通り道のデンマークを侵略した。
デンマークは、市民への被害を避け、ドイツから寛大な扱いを受けることを狙って、あっさり降伏した。死者はわずか16名。しかし、ノルウェーは降伏を拒み、完全動員により戦った。イギリスやフランスは援軍を送ったが、最終的に撤退することになり、ドイツに降伏したのである。したがって、ノルウェーはドイツの占領期間中、なかり過酷な扱いを受けたようである。デンマークの戦略は功を奏し、ドイツから高い自治権を認められた。
スウェーデンは侵略されなかったので、戦争中は中立だった。ドイツに戦略物資である鉄鉱石の輸出を行っていたが、しばしば連合国にも援助を行っていた。

エ 北欧理事会

第二次世界大戦後、スカンジナヴィア諸国は、相互防衛の政策が必要であると考え、スカンディナビアの防衛連合について協議を始めた。3つのスカンジナヴィア諸国は、同盟を組んだとしても、個々の国が主権を保持するが、外交政策や防衛問題では一つのブロックとして機能するもので、提唱された連合は、統合スカンジナヴィアの委員会で議論された。
その結果、北ヨーロッパに位置する各国家の政府、議会による協調と協力のための国際組織として、北欧理事会を設立した(1952)。
北欧理事会は、バラバラだった北欧の国々が第二次世界大戦に巻き込まれ、苦しみを受けたことを反省し、北欧諸国の団結を目指して、スカンジナヴィア3国が中心となって設立されたものである。
この北欧理事会は現在も続いており、加盟国は5ヶ国3地域。かつてエストニアが加盟申請した事があるが、却下されている。エストニアの他、リトアニア、ラトビアのバルト三国各国が加盟希望を表明している。
本部はデンマークのコペンハーゲンにある。1991年、情報事務所がバルト三国に開設された。その他、ロシア連邦のサンクトペテルブルグ及びカリーニングラードにも同様の事務所が開設されている。

オ 東西冷戦から現代へ

アメリカ合衆国とソビエト連邦間の冷戦の緊張により、ノルディックバランスが生まれた。ノルディックバランスとは、アメリカ寄りのデンマークとノルウェー、中立のスウェーデン、ソ連寄りのフィンランド、いわゆる「北欧の均衡」のことである。
北欧に表面的な平和を提供するものと言われていたが、最近の研究によれば、むしろアメリカと同盟のノルウェー、アメリカ寄りの中立のデンマークとスウェーデン、ソ連寄りの中立のフィンランド、という状態がより実態に近かったらしい。
冷戦期の実態は、ソ連がたびたび北欧への領海違反、スパイ事件を起こしており、平和を維持するどころではなかった。北欧の中立政策が重心とは言え、スカンジナヴィア三国はソ連とは敵対に近かった。
ソ連崩壊後には、冷戦終結によりノルディックバランスが消滅し、デンマーク、スウェーデンとフィンランドは、EUに加盟(1995年)したが、ノルウェーは現在もEUに加盟していない。
また、現在、どのスカンジナヴィア諸国もユーロに加盟していない。参加については、デンマークとスウェーデンの双方とも国民投票で否決された。スカンジナヴィアの国々は、国家間の提携と多面外交に熱意が高いにもかかわらず、ユーロに対する懐疑心が高い。

5 組曲を構成する楽曲の解釈

(1)第1曲「山頂にて」

第1曲は、中野二郎氏によって「山頂にて」と訳されている。副題もついており、特に訳されていないが、「ノルウエー牧歌」と訳すことができるだろう。

Hoch auf dem berge(Idillio Norvegese)(独)
In alto sulla cima (Norwegisches Idyll) (伊)

ノルウェーはスカンジナヴィア半島の西岸に位置し、国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、メキシコ湾流のおかげで、冬でも不凍港であるほど温暖で、ノルウェーの北部であっても、バルト海沿岸よりむしろ穏やかな気候となっている。
とは言え、これは比較論であって、厳しい自然条件を持つ国であることには違いない。
有名なノルウェー出身の画家「ムンク」の「叫び」が醸し出す雰囲気は、冬の間は日照時間が3時間しかない国の「存在の不安」が表現されていると前に述べた。
沿岸部はフィヨルドで切り立っており、陸地の殆どをスカンジナヴィア山脈が占めるため、平地はほとんどない。
したがって、題名の「山頂」は、日本における登山の感覚で考えるべきではないだろう。
むしろ、厳しい自然環境である沿岸部から離れたところにある高原で、それは農民の耕作地であり、いわば日常の生活空間を表しているのではないだろうか。
さて、この楽曲は3つの主題から構成されていて、どの曲にも副題がついている。どれもドイツ語で直訳も効かず、なかなか厄介だが、意訳すると、
第1主題 Sehnsucht nach dem Tal
山間への憧れ
第2主題 Bauernhochzeits musik tont vom Tal hinaus
山間から聴こえる、農民の婚礼を祝う音楽
第3主題 Uber Land und Moer zu dir geht mein Gedanke
私はこの豊かな山と海を心から感謝する
「平地の極めて少ないノルウェーの地を歩む私。山と山の間に出現する高原に期待しながら、一歩一歩、進んでいく。高原に到着する頃、限りある太陽の恵みを全身に浴びながら、農民がお祝いの宴を繰り広げている。このすばらしい大自然の恵みに感謝しつつ、高原を後にする私。」
第1曲は、そういう解釈で指揮をすることができればと考える。

(2)第2曲「平原にて」

第2曲には、下記の題名と副題がついている。

Auf dem Lande(Skandinavischer Bauerntanz)(独)
In campagna(Danza campestre Scandinava)(伊)

 この題名について、中野二郎氏は「平原にて」と訳している。「Lande」は、ドイツで版の楽譜によると、イタリア語では「Campagna」とされている。たしかに「Land」は平原なのだが、平原では、あまりに地理用語過ぎる。「campagna」には「田舎」「農園」「農地」という意味がある。
 中野二郎氏は特に副題を訳していないが、直訳するとスカンジナヴィアの民の踊りということなので、本曲について、私は「田舎にて~スカンジナヴィアの農民の踊り」と訳すのが適当であろう。
そのように考えていくと、本曲に出てくる様々な旋律は、異なる踊り手と想像できる。
まずは、男たちが、女たちが、そしてカップルでそれぞれ踊っていると考えられる部分と、やがて、小さな子どもたちが輪の中央に出てきて踊る部分が交互に繰り広げられる。
そして最後は、農民全員による収穫と天の恵みに感謝する晴れやかな踊りで終える、という解釈が成り立つであろう。

(3)第3曲「ヴァイキングの登場」

スカンジナヴィア組曲の第3曲は、「ヴァイキングの登場」(Einzug des Vikings(独)/Entrata del Viking(伊))である。
ヴァイキングと言えば、海を舞台に略奪行為を行った狼藉者というイメージである。海外の映画でもそういう風に描かれている。確かにそれは事実かもしれないが、それは略奪された側、あるいは第三者側からの見方であって、スカンジナヴィアの人たちは、自分たちの祖先が単なる乱暴者だったなどとは思っていないのではないかと推察できる。
この点については、諸国の間でも多少感覚が異なっており、ノルウェーやデンマークは、世界史上に北欧が標した一時代として誇りに思っているようであるが、スウェーデンは、多少の負い目を持っているという意見もある。
先にも述べたとおり、ヴァイキングは、8世紀から300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンジナヴィアの武装船団(海賊)を指すが、後の研究により、今では「その時代にスカンジナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉となっており、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残している。
ノルウェーの考古学者によれば、ヴァイキングは略奪経済を生業としていたのではなく、その地においては農民であり漁民であり、特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであったとされているのである。
さて、組曲における「ヴァイキングの登場」の曲想は、希望と覇気に満ちており、そこには、歴史上の犯罪集団という負い目はまったく感じられない。したがって、この曲を演奏するにあたっては、スカンジナヴィアの側に立ったヴァイキングを意識する必要がある。
なぜなら作曲者フレデリクソンは、スカンジナヴィアの人だからだ。彼のことは不詳とされていたが、インターネット時代の今、検索を駆使して、彼はデンマーク人であるという事実にたどりついたのである。

(4)第4曲「妖精の踊り」

第4曲目は妖精(=トロール)の踊りという題名で、特徴的な間奏曲という副題がついている。

Troll-Tanz(Intermezzo caractristique)(独)
Danza del Troll(Intermezzo caratteristico)(伊)

トロール(troll)とは、北欧の国の伝承、特にノルウェーの物語によく登場する妖精の一種である。妖精と言っても、鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。
ノルウェーでは、現代でもこのトロールを信じている人が結構いるらしい。日常生活でふっと物が無くなった際には「トロールのいたずら」と言われている。
ほとんどの土産物屋には愉快なトロールの人形が販売されており高い人気である。その姿も男性、女性、子ども、老人、中にはヴァイキング姿、サーファー姿、スキーヤー姿などのコスプレもあり、実に様々である。
ただ、一般的には、トロールは巨大で怪力、粗暴で大雑把・いたずら好き・醜悪な容姿・あまり知能は高くないといったイメージを持っているようだ。ムーミントロールは、作者トーベ・ヤンソンによると妖精のトロールとは違う生き物であるとしている。
最近の映画では、「ハリー・ポッター」に登場するトロールは、巨大で悪臭を放つ愚鈍な乱暴者として描かれていた。ハーマイオニーが危機一髪となった映画のシーンを思い出す。一方、「ロード・オブ・ザ・リング」では、危険な洞窟「モリア」を通る主人公一行に、巨大なトロールが一目散に襲いかかってくるシーンがあった。
アイスランドでは一つ目の邪悪な巨人として、フィンランドのトロールは、池にすむ邪悪な生き物で、霧が出て嵐が来ると人々はトロールが池から出てきて人を溺れさせる。グリーンランド、カナダのイヌイット、イハルシュミット族に伝わるトロールも邪悪な巨人であり、毛の生えてない腹を引きずり、物陰に潜んで人を襲い、その肉を引き裂くという、それはそれは恐ろしいものである。
しかしながら、色々と調べてみると、スカンジナヴィアにおいては、トロールは悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれるだけではなく、小さい身長として設定されたケースや、変身能力があって、どんな姿でも変身できるとの伝えもある。
デンマークのトロールは、白く長いあごひげの老人として、赤い帽子、革エプロン姿で滑稽に描かれている。ノルウェーでは、女性のトロールは美しく、長い赤毛をしているとされている。スウェーデンのトロールはベルグフォルク(丘の人々)といって、丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作って暮らしており、住家は財宝でいっぱいで夜になると光り輝くと言われた。
さて、ではスカンジナヴィア組曲における「トロールの踊り」はどう解釈すればよいだろうか。
曲想を考えると、例えば一つ目の醜悪な巨人がよたよたと踊っているのではなく、むしろ、毛むくじゃらで滑稽な小動物が愉快に踊っているという解釈の方が自然かもしれない。
また、作曲者において、勇壮な第2主題の中間部を、トロールの親玉による啓示としているのも興味深い。
私は、トロールはスカンジナヴィアの人々の心の中に住んでいる妖精であり、彼らの厳しい自然への畏怖、恐れ、悲しみや辛さ、そういった暗い部分を一身に背負い込んでくれている妖精であると考える。したがって、この楽章は単に踊っている様の描写ではなく、スカンジナヴィアの人々のトロールに対する畏敬の念が込められているのではないだろうか。
つい最近まで、「トロールの踊り」のひっそりとしたエンディングは、20分弱の大組曲の終わりにしては寂し過ぎるし、間奏曲という副題もついているので、この曲を3曲目とし、晴れやかに終わる「ヴァイキングの登場」を終曲にしようと考えていた。
しかし、ヴァイキングはあくまでもスカンジナヴィアの歴史の一過程であり、この地域の誰もが心の中に持つ妖精を讃えたこの曲が、やはり最後を締めるべき曲ではないかと思い直したところである。

6 まとめ

最後に、作曲者フレデリクソンがデンマーク人であること、作曲された年が1912年であることを前提にして、本曲の背景について考えてみたい。
スカンジナヴィア諸国の1912年の状況は、第一次世界大戦勃発(1914年)の直前で、フィンランドはまだロシア帝国の一部(1917年に独立)だった。ノルウェーはスウェーデンから独立したばかり(1905)だった。かつて支配したことがあるデンマークが独立を支援していた。
思うに、デンマーク人にとって、ノルウェーは兄弟国という親しみがあったのではないだろうか。ノルウェーの立場に立って歴史をおさらいすると、下記のようになる。

・ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいたらしい。おそらくドイツ北部からやって来て、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。デンマークと同郷の民族であると考えられる。
・9世紀からのヴァイキング時代に繁栄したが、黒死病の大流行などでノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年に従属化、1536年には正式に独立を失った。従属ではあったが、帝国主義の前の時代で、殖民と搾取といったシビアな関係ではなく、ゆるやかな連携というイメージではないだろうか。
・1814年、ナポレオン戦争の玉突きで、ノルウェーはデンマークからスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこの時独立を願ったが、列強の反対により実現できず、スウェーデンとの同君連合が開始された。時代的に、スウェーデンの国家主義に翻弄されていたと思われる。
・20世紀初頭、独立運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークに打診があった。その後国民投票により君主国家を設立し、議会は満場一致でデンマーク王家の分家として迎えたノルウェー王を選出、即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、結局ノルウェーの独立が認められた。

結論を急ごう。デンマークとノルウェーの絆は相当に強いと類推できる。本曲の各楽章を見てみても、そもそも、第1楽章の副題が「ノルウェー牧歌」であり、第2楽章の田舎の踊りは農村が舞台だが、半島を考えてみた場合、スウェーデンには湖沼が多く肥沃な地は少なく、農業と言えば、温暖なノルウェーの方であること、また、第3楽章で取り上げられたヴァイキングは、ノルウェーが一番隆盛を誇っており、最終曲のトロールは、ノルウェーの物語に特に多く登場すると言われていて、今でもノルウェーではその存在を信じている人が多いことなどがわかる。
これらを考え合わせると、本曲で歌われたスカンジナヴィアは、フレデリクソンにすれば「ノルウェー」が想像の対象であると思われる。
フィンランドはスカンジナヴィアの概念には入らないことは、前に述べた。スウェーデンは、デンマークから見ればライバル国で、果たして特別の郷愁を感じる対象になるだろうか。
このスカンジナヴィア組曲は、デンマーク人であるフレデリクソンが、時代の波に翻弄されたスカンジナヴィア半島、とりわけノルウェーのすばらしい自然と、数奇な歴史と、そこに住む人たちへの情愛と哀切の思いがこめられている、と私は考える。

※第67回定期演奏会で本曲を取り上げるにあたって、2009年10月に執筆したものです。 

(参考文献)
物語「北欧の歴史」(武田 龍夫 著):中公新書
世界史詳説(木下 康彦、 木村 靖二、吉田 寅):山川出版社
スウェーデン人はいま幸せか(訓覇 法子 著):NHKブックス
スカンジナビアン・スタイル:イーストリーム
地球の歩き方「ヨーロッパ」:ダイヤモンド社
Wikipedia

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