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ロシア民謡について

 

今度の定期演奏会2部ステージでは、ロシア民謡特集を取り上げる予定である。 


ロシア民謡。 
色々な曲が頭に浮かぶ。 
トロイカ・カチューシャ・ともしび・黒い瞳・二つのギター・・・ 
今回、色々な楽譜に当たってみると、何となく疑問に思えてきたことがある。 

それは、民謡というわりには、作曲者が明らかになっている曲が数多いことだ。 
作曲者のはっきりしている歌謡曲が、なぜ「民謡」? 


そもそも「民謡」とは、まだ楽譜が一般的でない頃から、民衆において古くから歌い継がれてきた伝承音楽である。 
当地の自然や気候、日々の生活に根ざしたものが多く、日本古来の民謡のみならず、世界各国の民謡も日本に伝えられ、年代を問わず幅広く親しまれている。 

では、我々が親しんでいる「ロシア民謡」は、やはりロシアの地で古くから歌い継がれてきた曲なのであろうか。 

答えはYESとは言えない。 
実は、わが国における「ロシア民謡」には、長年に歌って民間で受け継がれてきたような本来の意味での民謡は数少なく、むしろ帝政ロシア時代からソ連時代に生まれた大衆歌曲のうち、戦後日本で広く歌われるようになった楽曲の「ジャンル」を指しているのである。 

日本で親しまれているロシア民謡の楽曲は、ナロードナヤ・ペースニャ(Народная песня)と呼ばれたソ連時代の流行歌、愛唱歌がかなりの数を占めている。 

もちろん、19世紀以前から伝えられている「トロイカ(Тройка)」などの民謡がある一方、例えば、ロシア民謡の代名詞とも言える「カチューシャ(Катюша 1938)」や、仲雅美がカバーして大ヒットした「ポーリュシカ・ポーレ(Полюшко-поле 1934)」はロシア革命以降に作曲されたものであり、情緒的なメロディーが美しい「モスクワ郊外の夕べ(Подмосковные вечера 1957)」は戦後の流行歌である。 

なぜ、このようにジャンル名の意味と内実がずれている問題が生じているのだろうか。 
その辺を、時々考察してみたい。 

 

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前章で、「ロシア民謡」というジャンルについて、その意味と内実が何故ずれているのかという問題提起を行った。 

本来、ロシア語で民謡を意味する単語は、「フォリクロール(фольклор)」である。 
いわゆる英語のfolkloreに当たる。 
この言葉がスペイン語化してフォルクローレ (folclore) 。 
これは、誰でも聞いたことがあると思う。 
英語のfolkloreの本来の意味としては、音楽のみならず民俗学、民俗的な伝承一般を指すが、おもに日本では、ラテンアメリカ諸国の民族音楽、とりわけ、南米アンデス地方(ペルー,ボリビアなど)の民族音楽、またはそれをベースとしたポピュラーソングを指している。 

さて、ロシアの大衆歌謡を日本に紹介しようとした人が、大衆歌謡(英語:Popular song)を意味する「ナロードナヤ・ペースニャ(Народная песня)」というロシア語を、なんと「民謡」と誤訳してしまった。 
それがジャンルと内実がずれた原因だと言われている。 

「ナロードナヤ・ペースニャ(Народная песня)」の「ナロード(Народ)」は、「民衆」「民族」「人民」「国民」などと訳すことができるらしいので、「民衆の歌」を「民謡」と訳してしまったのではないだろうか。 

また、ソ連時代には、社会主義国家として、個人財産の所有に大きな制限があった。 
したがって、歌も公共の財産とされたため、特定の作曲者や作詞者が伏せられていた場合が多かったのである。 
そのため、そういった数々の楽曲は、日本において「民衆によって伝承されてきた作者不明の民謡である」という誤解を生じさせてしまったとの見方もある。 

さらに、日本人はソ連の事情に疎いこともあり、結果的には、みんながロシア歌謡を「ロシア民謡」として呼んでしまったのであろう。 

余談だが、実際はウクライナやベラルーシの歌であったものも多く、「黒い瞳」はウクライナ人がロシア語で作詞したとのことである。 

 

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楽曲の編曲にあわせたステージ構成には工夫が必要である。 

ロシアの歌は、なんと言っても短調(minor)が多い。 
短調にありがちな情緒的で物悲しいメロディばかりでは聞き手も弾き手も飽きるので、緩急・短長を織り交ぜて配置したいところだ。 

ところで、ロシア人の音楽的志向があるにせよ、日本人の好みに合わせ、短調のものが多く持ち込まれたことは事実である。 
一方ではソ連時代の音楽的統制の中で、明るすぎる印象を与える歌は発禁となったので短調の楽曲が多かったのだとも聞く。 
ロシア民謡は、シベリア抑留から解放された帰国者によって日本に多く持ち込まれた。そのため戦時中の流行歌が多く、内容的にも物悲しいものが多かったことも特徴である。 

近代以降、日本とロシアとの政治的関係はあまり良好とはいえなかった。 

しかし、明治の中期頃から次々と日本に入ってきたロシア民謡は、その美しいメロディーのおかげで日本国内にしっかり根付き、戦後しばらくして、ロシア民謡は日本国内で非常に大きなブームとなった。 
男声コーラスのダークダックスなどが積極的に取り上げたことが大きいが、飲食店の一形態である「歌声喫茶」が、その普及に大きな役割を果たしたと言われている。 

1955年、新宿に「カチューシャ」、「灯(ともしび)」という喫茶店が誕生したことが起因とされる、歌声喫茶。 
終戦後、米軍による占領期を経て、日米安全保障条約の改正や各種の労働問題を抱えた時代であり、国民の多くは政治的な関心を強く持っていた。 
そのような背景の中で、労働運動や学生運動などの高まりとともに、人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は高まった。 
まだテレビが普及する前でもあり、店内は毎日のように若者であふれ、最盛期には全国で100軒を超える店があったという。 
集団就職で地方からやってきて、寂しい生活を送っていた青年たちが多い中、そういう場で仲間と歌を一緒に歌うことは、単なる政治的運動という側面のみならず、連帯感を共有するという大きな役割を果たしてきたと思うのである。 

歌声喫茶は、「個人で歌う」現代のカラオケとは違い、店の看板的存在であるリーダーが取り仕切って、店内の客が「一緒に歌う」場所だ。 
さとう宗幸や上条恒彦は、歌声喫茶のリーダー出身だとされている。 
伴奏はピアノやアコーディオン、ギターのほか、大きな店では生バンドも入っており、ロシア民謡を中心に歌われたらしい。 

本稿では政治的イデオロギーを解説するつもりはないが、ロシア民謡の流行は、歌声喫茶の客層をターゲットにしたソ連当局の国策に乗ってしまったと言えなくもないだろう。 
また、一方で、安保問題で反米感情の大きかった時代、ベールに包まれた東側諸国や社会主義・共産主義への憧れもあったと考えられる。 

その後、歌声喫茶のブームは、学生運動の退潮に連動して急速に衰退し、やがてはほとんどの店が閉店した。 
ソ連経済が思うようにならず、国家そのものの欠陥が露呈されてくるに従い、社会主義幻想が衰退していく中で、ロシア民謡の流行の最盛期も去っていった。 

しかしながら、重厚で美しい和声表現を持っているロシア民謡。 
我々は、イデオロギーの面を気にするあまりに、いたずらに敬遠するのではなく、その美しいメロディーや寒冷の地に住む市井の人々の暮らしを描いた音楽的至宝として、風化させることなく末永く大事に歌い継がれていくべきであると強く思う。 

ロシア民謡は、マンドリン合奏においても、昔は盛んに演奏されたという記録が残っているが、近年はほとんど演奏されていないようだ。 
今回、敢えて、ロシア民謡の持つ歴史的な背景をしっかり認識した上で、マンドリンの音色を生かした新しい編曲を試みることにより、当楽団の定期演奏会でしっかりと取り上げたいと思っている。

 

 

※第69回定期演奏会で本曲を取り上げるにあたって、2011年1月に執筆したものです。 

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