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エカーヴの嘆きを考える

 

1 作曲者ラウダスについて

 

マンドリン合奏曲の中でも不朽の名作のひとつである「エカーヴの嘆き(原題はフランス語~Lamentation d’ Ecave」を論ずる前に、作曲者について触れておきたい。

各種の資料によれば、作曲者はギリシャのアンドロス島生まれのラウダス(Nicolas Lavdas 1879~1940)。ギリシャが生んだもっとも偉大なプレクトラム系音楽の研究者であると言われている。

ラウダスはアテネ大学で数理学を収めた学者であるが、マスネーの教えを受けながら、アテネ芸術大学で音楽を学んだ。卒業後は音楽家として数多くの作曲や編曲、著作活動を行ったとのことである。音楽界への転身については、当時流行していたマンドリン音楽の指導者的立場だった叔父の影響があったらしい。

音楽活動としては、「マンドリンの奏法」「音楽理論の手引」などの著書があるほか、音楽院の校長としても知られており、20世紀初頭には学院附属の合奏団を率いて訪米し、アメリカのマンドリン界に刺激を与えたとのことである。

マンドリンに関する主な作品は、当時ミラノで刊行されていたマンドリン誌「イル・プレットロ」が主催する作曲コンクールで入賞した「第二ギリシャ狂詩曲(ギリシャ風主題による序楽)」や「クレタ風舞曲」のほか、校歌、児童ミュージカル作品、その他数多くのギリシャ民謡の編曲などがある。

本曲は印刷に付されることはなく、先のマンドリン誌「イル・プレットロ」から手写譜により頒布されたらしい。わが国においては「エカーヴの嘆き」として邦訳され、長年にわたって広くわが国のマンドリン界でも愛奏されている。

 

2 「エカーヴ」とは誰のこと?

 

さて、このエカーヴ(Ecave)はフランス語読みであるが、これは誰を指すのであろうか。この曲を考察するためには、欠かせない作業である。

エカーヴとはギリシャ神話に登場する故事「トロイの木馬」で有名な小アジアの古代都市「トロイア」の王妃「ヘカベ」(Hecuba)のことを指しているらしい。

このヘカベは、紀元前8世紀頃のギリシャの詩人ホメロスの叙事詩イリアスの登場人物である。

イリアスには、ヘカベの愛息ヘクトル(Hector)がトロイア戦争(Trojan War)の末、敵方ギリシャのアキレス(Achillesわが国でも有名な「アキレス腱」という言葉のルーツ)に討ち取られ、その結果トロイアは滅亡に至ったとの故事が記されている。

したがって、本曲「エカーヴの嘆き」は、ギリシャ人であるラウダスが、自国のギリシャ神話の中から題材を選び、トロイア戦争に負けた王妃の悲劇をモチーフにしていると考えられる。

曲の導入部は悲劇の前触れを思わせる重々しい短調の旋律が奏でられる。

その後、わが子ヘクトルの思い出が幾度となく登場する。連戦連勝のエクトルの雄姿を思わせる軽快な旋律や、平和な時代を思わせる旋律が次々に劇的に展開を重ねていく。

最後は壮大な高まりを見せて物語は終了するのである。

本曲は悲劇という名の、一大スペクタクルを思わせる叙事詩であると言えよう。

 

3 ギリシャ神話をたずねて

 

ギリシャ神話は古くから全世界に流布されており、さまざまな登場人物や有名なエピソードがある。トロイア戦争ひとつ取っても、何度も映画上映がなされている。

しかしながら、その文化背景の違いから、わが国では、ギリシャ神話に触れる機会が少ないのではないだろうか。

そこで、今回、ギリシャ神話に関する資料にあたることにより、このトロイア戦争にまつわる故事を考察し、本曲のより深い解釈を試みることにしたい。

実は、本曲のモチーフになるトロイア戦争の原因は、トロイア王子ヘクトルの弟にあたるパリス(Paris)が、敵国スパルタ王妃のヘレネ(Helena)を略奪婚したことが発端である。ちなみにヘレネはクレオパトラ・楊貴妃と並ぶ世界三大美女と言われている。

 

4 パリスの審判

 

ある時、オリンポスで、人間男子(ペレウス)と神様女子(テティス)の婚儀が、人間と神様のコラボレーションで盛大に行われた。

ところがトラブルメーカーで名高い、争いの女神(エリス)だけはこの饗宴に招待されなかった。

怒った彼女は、騒動を起こそうと考えた。持っていたヘスペリデス(不死の庭園)の黄金のリンゴを「最も美しい女神へあげるわ!」と叫んで、神々の座へ投げ入れたとのことである。

誰もが欲しいこのリンゴ。

当時、ギリシャにはヘラ・アフロディーテ・アテナの三人の女神がおり、その美しさを競い合っていた。予想通り、このリンゴが欲しい三人の女神による激しい対立が起こり、収拾が着かない。そこで、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかを、当時イケメンで名高かったトロイアの王子パリスにゆだねることにした。

この故事は「パリスの審判(Judgement of Paris)」と言われており、ルーベンスやルノアールなどの有名な絵画で描かれている。

当時、羊飼いをしていたパリスが泉のそばで休んでいると、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三人の女神が現れて、美しい装いを凝らしてパリスの前に立った。誰が一番美しいか選べと迫るのである。

さらに女神たちはパリスに、自分を選んでくれたら贈物をするとささやくのである。

ヘラは世界を支配する力を、アテナはいかなる戦争にも勝てる力を、アフロディーテは最も美しい美女を用意すると、こっそりパリスに約束した。

結局、パリスは美女をもらうことにし、アフロディーテを選んだ。

実は、後日手に入れた美女は敵国スパルタの王妃ヘレネ(父はゼウス)であり、この略奪がトロイア戦争の事実上の原因となるのである。

 ところで、なぜ王子であるパリスが当時羊飼いになっていたかというと、パリスが生まれた時、アポロンの神託で母親のヘカベは自分が松明を生み、その火で町が焼きつくされる夢を見たらしい。そこで、将来パリスがトロイを滅ぼすことを恐れて、彼は山に捨てられ、農夫に拾われて育ったとのことである。

後日、その素性が明らかになった眉目秀麗なパリスは、トロイア王家に迎えられた。

 

5 絶世の美女ヘレネ

 

さて、時のスパルタ王には、絶世の美女であるヘレネという娘がいた。

彼女は、ギリシャ中の王子や勇者から結婚を申し込まれており、彼らはヘレネと結婚するためには戦いも辞さない雰囲気だった。

そこでスパルタ王がオデュッセウスに相談したところ、スパルタ王が数多くの求婚者の中から夫を選び、求婚者たちは全員王のこの選択を受け入れ、ヘレネをその夫から奪おうとする者には全員結束して戦うことを誓い合わせてはどうかと提案した。

そこでスパルタ王は彼の意見を入れて、その調停案に従った。

そこで選ばれたのが、当時ギリシャ諸国の中で一番繁栄していたミケーネの国王の弟メネラオス。ヘレネと結婚して新しいスパルタ王になった。

 さて、ヘレネとメネラオスとの生活は特に問題はなかったが、ある日トロイアの使者としてパリスがスパルタにやってくることになった。

すると、なんとこのタイミングで、直前にアフロディーテがヘレネの夢の中に現れ、パリスこそが夫になる男であることを告げるのである。パリスもヘレネと会った時にアフロディアとの約束を思い出し、ヘレネもパリスを一目見て、二人は恋に落ち、何とパリスはヘレネをトロイアへ連れて帰ってしまった。

このままではトロイアとギリシャとの戦争は避けられない。

しかし、あまりに魅力的なヘレネの美しさに、誰もヘレンを手放すことを進言できなかったのである。

ヘレンをパリスに奪われたメネラオスは、オデュッセウスとともにトロイアに赴いてヘレネの引き渡しを求めたが、パリスはこれを断固拒否した。

兄のミュケーナイ国王ガメムノンは、これでトロイア攻撃の大義名分ができたとし、メネラオスはギリシャ連合軍の総大将としてトロイア遠征を決定した。

トロイア戦争の勃発である。

 

6 トロイア戦争

 

この戦争では神々も両派に分かれた。

アポロン、アルテミス、アレース、そしてヘレンをパリスに世話したアフロディーテがトロイア側に、アフロディーテのライバルだったヘラ、アテナ、そしてポセイドンがギリシャ側に味方した。

トロイア戦争は10年に渡って続くが、長く続いた理由のひとつに、このような神々の関与がある。

遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙し、戦争は膠着状態に陥った。

さて、ヘレナを賭けてパリスはメネラオスと決闘したが敗れ、危うく命を落としかけるが、アフロディーテによって命を救われる。

捕虜にしたトロイの女をめぐってアガメムノンといさかいをおこしたアキレスが前線から離脱、ギリシャ軍がトロイ軍の猛攻の前にピンチに陥った時、ポセイドンがギリシャ軍を救う。

その後、策士のオデュッセウスがアキレスの親友パトロクロスを説得し、ギリシャ軍を鼓舞するためにアキレスの黄金の鎧を彼に着せてアキレスの身代わりにしてギリシャ軍は体制を建て直すが、パトロクロスはヘクトルに倒される。

怒ったアキレスは戦場に復帰し、復讐のためヘクトルに決闘を挑んだ。

流石のヘクトルもアキレスの前に敗れた。パリスはアキレスの唯一の弱点である踵を弓で射抜いて倒した。アキレスは、彼がまだ幼い頃、母親に黄泉の国の川ステュクスに浸してもらったおかげで不死身の身体になっていたが、唯一、母が手で持っていた脛の部分だけが弱点だったのである。

ヘクトル、アキレスが死に、パリスも、遅れて参戦したピロクテテスが持っていたヘラクレスの弓矢によって殺され、トロイ戦争は大詰を迎えた。

 

7 トロイアの木馬

 

ギリシャは、知将オデュッセウスが考案した、巨大な木馬を造りその腹の中へ精鋭の兵を潜ませる、という作戦を実行することにした。

あまりにも有名な「トロイアの木馬」のエピソードである。

ある夜、「女神アテナに捧げる」と彫りつけた木馬をトロイア城門の前に放置して、ギリシャ船団は海の彼方へ引き上げたかのように見せかけて近くの島影に隠れた。

木馬を見たトロイア人は、勝った、勝ったと喜び、木馬を城内に運び込んだ。そして戦勝気分に浮かれている人たちによる大宴会が繰り広げられた。

やがてトロイアの兵士たちが酔っ払って眠る頃、木馬に潜んでいた兵士たちが忍び出て城門を開き、ひそかにトロイアの城壁に押し寄せた軍隊と合流してトロイア軍を攻撃したのである。

結局、トロイアはこの策略にまんまと引っかかり、かくて難攻不落のトロイア城は一夜で陥落した。

その美しさがトロイアの王子パリスを迷わせ、二人のかけ落ちが全ての争いのもとになったスパルタの絶世の美女ヘレネは、元夫であるスパルタ王メネラオスの前に引き立てられると、すべて自分のせいではないと平然と弁明した。

ヘカベはメネラオスに、ヘレネを殺すよう詰め寄るが、その美貌に手を下すことができないメネラオスは、結局ヘレネを祖国へ連れ帰ったのである。

メネラオスはヘレンを殺そうと一度は思っていたのだろうが、変らぬヘレンの美貌の前にその決意は雲散霧消してしまったのである。結果的に、ヘレネはメネラオスに許され、パリスが死んでしまうと情熱もいっぺんに覚めたのだろうか、再びスパルタ王妃として君臨した。

 

8 トロイア一族のその後

 

一方、破れたトロイア側のその後は哀れであった。

女王ヘカベは将軍の奴隷となり、残された息子、娘や嫁は、聖なる巫女から愛人へ転落するなど悲惨な末路をたどった。

永きにわたった戦争ののち、「トロイアの木馬」の奇襲作戦によりギリシャ軍に滅ぼされたトロイアの都。男たちはみな死に、残された女たちは奴隷としてギリシャに引き立てられていった。

ヘカベの息子で雄々しく戦死した勇将ヘクトルの息子は、城壁からたたき落とされてしまった。

ギリシャ行きの船が次々と出ていく。孫を無残に殺され、絶望のどん底にあるヘカベの背後で、難攻不落の都トロイアが炎上し、物語の幕は閉じるのである。

 

9 最後に・・トロイアの遺跡

 

さて、神話上の伝説と言われていたトロイア一帯の遺跡は、19世紀末にシュリーマンによって発掘されたと伝えられている。

シュリーマンは、発掘した9層の遺跡のうち、火災の跡のある下から第2層がトロイア戦争時代の遺跡と推測した。

その後の調査では、第7層がトロイア戦争のあったと伝えられる時期(紀元前1200年中期)とのことである。

もっとも、トロイア戦争は歴史的な事件ではなく神話であり、全くの創作であるとの見解が一般的である。

ただ、この頃は、小アジア一帯は繰り返し侵略を受けていたらしい。

とすれば、トロイアのような古代都市が戦争による火災に見舞われたことは、考古学的にも、可能性としてはかなり高いのではないだろうか。

シュリーマンは、少年時代から「トロイア戦争は実際にあった事に違いない。トロイアの都は、今は地中に埋もれているのだ」という夢を抱いていた。

その信念を実現するために、シュリーマンは、当時は空想上の産物とされていたホメロスの遺跡を次々と発掘してゆくのである。

彼を駆り立てた、ギリシャ神話とりわけトロイア戦争に関する人間絵巻には、我々も大いなる興味と感動を抱かざるを得ない。

 

(2015.5.13 記)

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