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50周年記念誌より(50年の回顧)

 

平成8(1996)年11月10日
児玉 久

 

 誕生からの経緯は藤原義隆さん執筆の「20年の歩み」に詳しく書かれていますが、戦前北九州には小倉に赤坂 マンドリンクラブ、八幡にオリオンマンドリンクラブ、若松に若松マンドリンクラブと愛好者によって小規模ながら合奏活動が始まっていたし、それに大学時代のマンドリンクラブ経験者がいたので終戦直後とはいえ昭和21年11月6日創立演奏会に16名も参加できたものと考えられます。
 中心人物は九大OBの大宅敬之さんで同じ九大OBの先輩でお偉方の井上製鉄病院副院長に指揮をお願いし、華々しく打ち上げたものと思います。

 当時、製鉄軽音楽団の指揮をしておられた東洋音楽学校出身の河内秀喜さんに指導をお願いし暫く音楽の訓練を受けたのですが、残念なことに東京に行かれたの で小倉の望月佐幸さんにその後ずっと指揮指導を受けました。
 望月さんは早大出身で、東京におられた時武井守成先生のオルケスタ・シンフォニカ・タケヰの定期演奏会に1~2度出演されている程度の実力の持ち主です し、ヴァイオリンセロもよく弾かれ、又たしかコーラスの指導もされていた、今で言うマルチ人間です。主にマンドリンオリジナル曲で徹底的にしごかれマンドリン合奏団も大きく前進致しました。
 長らくお世話になりましたがご都合で昭和29年にやめられ、それからは私が受け持ちました。ところが私が八幡製鉄から黒崎窯業に出向する身となり昭和32年にやめ、それ以後は主に秦政弘さんが受け持たれました。
 その後調子よく続いたのですが、昭和38年頃秦さんが病気で新田原の翠松園で長期療養の身となられ定演も中断せざるを得ない状態となり、幹事長の松尾さんと長老の原田さんに呼び戻され再び昭和39年より指揮を受け持ち、その年の5月28日八幡市民会館で定演も復活しましたが、そのときの女性軍の意気込みは ものすごく、赤城淳編曲「ラテンファンタジー」はレクオーナの名曲をそろえ最高の熱意ある演奏でした。
 昭和40年の定演は同じ赤城淳先生の当方より注文の「ラテンリズムによる日本民謡(九州編)」であの広い八幡市民会館で入場札止めくらいの勢いでした。

 昭和26年に服部正先生にお願いして当合奏団の「YSMOマーチ」を作曲して頂いたご縁で昭和41年の創立20周年第26回定演には先生の指揮で「ホリデ イ・イン・ジャパン」つづいて翌年から「次郎物語」・「人魚姫」・「シンデレラ姫」と前後4回音楽物語の楽しさを教えられ、また先生の作品やマンドリンオ リジナルの名曲で鍛えられこの期間に当合奏団は大きく成長致しました。
 服部正先生は当合奏団の大恩人です。うまく軌道に乗り、その頃より日本マンドリン連盟も発足し私も九州地区担当者となり奔走しなければならない身となり、 当時九州工業大学におられた九大マンドリンオーケストラOBの大御所、清正寛先生に懇請し昭和46年より指揮指導をお願いてきました。
 昭和47年2月12日には大分のフクダ・シンフォニック・マンドリンオーケストラと大分文化会館で合同演奏会・同年10月21日の第32回定演を八幡市民会館で挙行したときは日本マンドリン連盟の田中常彦先生が臨席されるという光栄に浴し隆盛の一途でした。

 ところが好事魔多しとはこのことですか、昭和48年分裂騒動が起こり大半の団員が決別し新たに北九州マンドリン合奏団を創立しました。
 残った部員で盛り立てていったのですが思わしくなく、再び私に声がかかり昭和50年より受け持ちその年11月11日戸畑音楽ホールで30名程度の定演を復活致しました。
 皆の心がまとまり、小さな音楽童話「河童のお酒」が女声ソリスト2名とナレーターのよろしきを得、好評でしたのでそれからは毎年、定演の最後のステージに は主に鈴木静一先生作曲の物語とマンドリンオーケストラによる「マッチ売りの少女」「氷姫」「人魚」等々昭和62年まで続け、後はその他の方々に指揮をお任せするようになり現在に至っています。
 現在の年間行事は昭和51年に始まった各都市持ち回りの九州マンドリンフェスティバルと昭和61年に始まった北九州マンドリンフェスティバルを春から夏のある日曜目に開催し各団体の交歓を兼ね、次いで夏の職域音楽団体のフェスティバルである日本産業音楽祭西部大会が昭和32年からあった歴史のあるフェスティバルですがこの方は数年前から消滅しました。惜しいことです。それから秋はそれぞれの団体主催の定期演奏会でこれが最も充実したものです。


 これらの行事以外に私には数々の思い出深いマンドリン演奏会があり2、3ご説明いたします。
 まず昭和42年9月21目NHKテレビ「ふるさとの歌まつり」に製鉄の文化団体を代表して当合奏団が出演した事で、労働者を表明するためか男子は皆さん作業服、もちろん指揮者の私も、宮田輝アナウンサーの巧みな誘導で進行し、曲は北九州にちなみ火野草平の「麦と兵隊」の映画の主題歌「徐州、徐州と人馬は進む」で有名なメロディを立川澄人が、また野口雨情作詞、中山晋平作曲の鎮西小唄「見せてやりたや北九州」を都はるみが、マンドリン合奏曲用に編曲され、そうむつかしくはなかったのですが、皆さん良く演奏され、その伴奏を背景にさすがは一流歌手、堂々と歌っていたのは印象的で、宮田アナウンサーの団員への質間ありで一躍八幡製鐵マンドリン合奏団は全国に有名になりました。

 外国の演奏団体の来演には言葉の応対もありかなり神経を使います。
 昭和56年8月1目のInternational Mandolin Festivalの時は戸畑音楽ホールが国内の最初の会場でツヴィックル先生指揮のウィーン・マンドリン・ギター・アンサンブルと有名なギタリストのべ一レント先生指揮のドイツ・マンドリンオーケストラに北九州、福岡、熊本の3団体との交歓演奏会は大成功でした。
 また、平成3年8月28目八幡市民会館で、メルボルン・マンドリンオーケストラの北九州マンドリン連盟の皆さんとの交歓演奏会も、この時は最後のステージ でメルボルンの指揮者でありかつ作曲者のフレッド・ヴィット氏作曲の「カタロニアの印象」の合同演奏をした感激は皆さん忘れ得なかったものと思います。

 50年継続した秘訣はと聞かれても名答はないのですが、情熱を持ってじっとじっと辛抱して・挫折することなく前進する努力を続けた事が幸いしたと私は思います。

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