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70周年記念誌より(合奏団のあゆみ)

 

​平成28年(2016)年10月10日

本文・構成 森安 浩司

 

北九州市には「世界遺産」があります。ご存知ですか?

2015年7月、明治日本の産業革命遺産が国内では19番目の世界遺産に認定されました。

この世界遺産は、西洋からの技術移転と日本の伝統文化が融合し1850~1910年に急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する日本各地の複数の文化遺産群によって構成されています。

その中のひとつが、北九州市八幡東区にある「官営八幡製鉄所旧本事務所」で、実は我が合奏団の第1回定期演奏会の会場なのです。

八幡製鉄所は近代日本の産業発展の象徴として、1901年に東田第一高炉に火入れが行われ稼働が開始しました。以来、北九州工業地帯の主要拠点となったのは、皆様ご存知の通りです。

わたしたちの合奏団は、その「八幡製鉄所」のマンドリン合奏団がルーツになります。

創立以来の70年のあゆみについて、諸先輩々の記録や写真、現役団員のエッセイなどを織り交ぜながら書き綴ってみたいと思います。

 

◆1946(昭和21)年~

 

世界遺産に認定された旧本事務所の第一会議室で、1946年11月、第1回定期演奏会が開催されました。

まさに戦後の日本社会の変遷とともに、私ども合奏団はこれまで歩んできたことになります。

創立当時の事について、合奏団の大先輩のお一人である、故 藤原義隆氏は20周年記念誌の中で、下記のように述べています。

「終戦の翌年、世情はまだ混沌としていて、ともすれば生きる希望さえも見失ひそうになるほどの苦しい日々の流れの中で、私達のマンドリン合奏団は生まれました。・・・(中略)久しく絶えていたマンドリン合奏に浸りきり、弦の織りなす妙なる和声と、トレモロの流れの中で、それまで抑圧されつづけて来たマンドリンへの渇仰と情熱を傾けつくして弾きつづけたその人達のようすや、涙ぐみたくなるほどにこみ上げてきたであろう、その人達の嬉しさが、なぜかひしひしと感じられてなりません。」

戦時中の鬱屈を乗り越え、音楽に対する情熱が再燃した当時の状況を彷彿とさせてくれます。

 

◆1966(昭和41)年~

 

引き続き、氏の文章を引用します。

「その後の私達の上には決して順風満帆の日々が約束されていたわけではなく、職場団体としての共通の問題点、つまりメンバーの拡充と安定、練習時間の制約、使いやすくて固定した練習場の確保など悩みの多い、長い長い20年でありました。」

メンバー・練習時間・練習場所。当時の先輩方の悩みは、そのまま今現在の私たちと同様で、これらは時代を超えた普遍的なものなのでしょう。

そんな中、1966年には創立20周年を記念して、斯界の重鎮である服部 正先生(1908~ 2008)を指揮者としてお迎えして、記念演奏会が開催されました。以来、先生からは4回にわたって指揮をいただいています。

服部氏は、日本のクラシック音楽の大衆化に努めた著名な音楽家で、管弦楽やオペラなど数多くの作品を残しています。そして私どもの毎年の演奏会のエンディングで必ず演奏する「YSMOマーチ」(1951)の作曲者でもあります。

今も元気に当合奏団で活動している、20周年記念演奏会を経験した団員がいます。

 

【服部 正先生との思い出】 置鮎 紘一 

20周年記念演奏会(1966)の決め曲を探している時、偶々立ち寄ったレコードショップで、数少ないマンドリン曲の中で「ホリディ・イン・ジャパン」を見つけて購入しました。この曲は服部先生が昭和38年全日本学生マンドリン・オーケストラを率いてアメリカ各地を演奏旅行された時に、そのオーケストラのために書き下ろした、日本の旋律による接続曲です。一聴して「これだ」と思い、ポータブルプレーヤーを持参して採用されました。

この年から私はマンドラに転向しました。27回定演(1967)は「次郎物語」。28回定演は「人魚姫」。その時の直前練習で、先生がいきなり「楽器を見せてください」と言われました。鳴らない楽器を一生懸命弾いていたからでしょう。当時、ドラ・セロ・ベースはほとんどの人が合奏団の楽器を使っていました。

先生との思い出の中でも一番は、最後のご来演となる第30回定演(1970)。全ステージ指揮をされました。前日練習時に、先生がいきなり私の前に楽器ケースを差し出されて、「この楽器を使いなさい」と東京から楽器を持って来られたのです。当時使っていた楽器は楽団の物でクニシマ製でした。28回定演の時の事を覚えていてくださったのです。先生がお持ちした楽器は落合忠雄氏作の物でした。帰宅後すぐに全弦交換。当日のゲネプロにて、客席で聞いていた故真鍋さんが「あんたの音しか聞こえんかった」と言われ楽器でそんなに違うものかと。先生の心遣いに本当に感謝感激しました。定演後、すぐ落合忠雄氏作のドラを合奏団が購入しました。ただ私は数年後に落合忠雄氏作ではなくイタリア・カラーチェ作を購入しましたが。

因みに、先生は2008年に老衰のため100歳でご逝去されました。合掌。

 

その後、故 児玉 久氏が指導者として登場しました。氏は音楽性・識見ともに優れた、当楽団の歴史を語る上でなくてはならない大先輩です。1954年に当合奏団で指揮者に就任して以来、およそ30年間にわたって合奏団を牽引してまいりました。

児玉氏と交流のあった団員は、まだたくさん当楽団に残っています。

 

【児玉 久先生との思い出】 岩井 啓子

児玉先生といえば、まずは「お酒」ですね。海の家「なぎさ」で合宿中、朝食の時から、「奥さん、私のお薬をください」と言えば、「はい、はい」とお約束のビールが出てきました。そんなお酒好きなのに、お酒に飲まれることは一度もなく、実に綺麗なお酒の飲み方でした。

次に「几帳面な整理整頓」 先生宅の応接間の壁面いっぱいに、楽譜やレコードやカセットがきちんと整理されていて、選曲会議の時、何の曲でも、即座に楽譜や音源が手品のように出てきました。今でも部室で、先生の性格そのものの、伸びやかでおおらかな自筆の楽譜袋を見ることができます。

そしてなんといっても「心の広さ、寛容さ、明るさ」です。演奏会の構成や選曲も自由にさせてくれました。自分の子供や孫くらいの年齢の団員にも、きちんと敬語でお話される紳士なのに、「タンボ(・)リン」とか「チ(・)ンパニー」とか言ってみんなを笑わせ、とにかくお茶目な楽しい人でした。

でも、一度だけ合奏団の行く末を案じて、苦言を呈される厳しい面もありました。

結局私たちは、あの仏様のような大きな手のひらの上で、遊ばせてもらっていたのですね。今日の演奏会には懐かしい方々が駆けつけてくれましたよ。先生見ていてくださいね。

 

児玉氏は、創立50周年記念誌で次のようにも語っています。

「創立20周年には服部先生の指揮で「ホリデ イ・イン・ジャパン」につづいて翌年から「次郎物語」・「人魚姫」・「シンデレラ姫」と前後4回音楽物語の楽しさを教えられ、また先生の作品やマンドリンオリジナルの名曲で鍛えられこの期間に当合奏団は大きく成長致しました。」

世は経済成長の時期、八幡の町は三交代の従業員たちで朝も昼も夜も賑やかだったと聞いています。合奏団としても質量ともに全盛期を迎えました。団員が100人を超える時期もあり、活発な音楽活動が繰り広げられていました。

その後、順風満帆だった合奏団にも、大きな試練が訪れます。

◆1973(昭和48)年~

 

3年間もの定演休止時期が存在したのはこの頃です。児玉氏は下記のように語っています。

「(前略)ところが好事魔多しとはこのことですか、1973年分裂騒動が起こり大半の団員が決別し新たに合奏団を創立しました。残った部員で盛り立てていったのですが思わしくなく、(中略)1975年11月戸畑福祉文化センター音楽ホールで30名程度の定演を復活致しました。」

再開後は、毎年定期演奏会が開催されるようになりましたが、ちょうどその頃、我が国における産業構造の転換に伴う産業設備の集約、移転、合理化などが急速に進み、いわゆる「鉄冷え」の時期が北九州市に訪れました。

かつては5万人いた製鉄所従業員も激減し、それに伴って、団員の数も急激に減少してまいりました。

 

◆1989(平成元)年~

 

鉄冷えは市内経済にも深刻な影響を及ぼしましたが、北九州市がそこからの脱却を目指して、都市再生に取り組み始めたころ、当楽団も新たな団員の積極的な勧誘を広く行い、いわゆる市民合奏団として巻き返しを図りました。

選曲について毎回綿密な検討を加え、新たな楽曲や編曲を導入して、楽団の体制を整えてまいりました。

その成果もあり、1989年にはなんと10人台まで減少していた団員数も、その後増え続け、創立50周年記念演奏会(1996)の時には、合奏としては十分な50人を越える出演者を有することができました。

昨今の勤務形態の変化やサービス業の伸展などに伴い、水曜日の夜だけであった練習日も、現在では毎月1回日曜日の練習を加えるようになり、終日練習するこの日を楽しみに遠方から参加する者も大勢います。

団員は、20代から70代までの幅広い年齢層で、会社員や公務員、主婦や学生など様々な立場のメンバーが、世代を超えて和気藹々と合奏を楽しんでいます。

◆他団体との交流

 

ここで視点を変えて、他団体との交流について述べてみたいと思います。

藤原氏によれば、合奏団は製鐵所内の昼休みの職場巡廻や、夜間の寮慰問などを行っていたようです。

また1949年に九大医学部講堂で行なわれた勤労者音楽コンクールで、小池正夫氏の「古戦場の秋」を演奏し、職場器楽の第1位と綜合優秀賞を得て、絶賛を博したと語っています。

時代は経済復興が進み、職場職域における文化活動も盛んになってきた時期で、その流れの中で、1957年に日本産業音楽祭西部大会がスタートしました。こちらは1995年頃に一定の役割を終え終了しましたが、他の職域の異なる音楽団体と交流できるよい機会だったと思います。当時の思い出について当楽団の部長に語ってもらいました。

 

【産業音楽祭】 岩井 幸治

私が入団した昭和52年当時、合奏団の年間行事としては、春の九州マンドリンフェスティバル、夏の日本産業音楽祭西部大会、秋の定期演奏会が主でした。

日本産業音楽祭西部大会は、新日本製鐵ハニーハワイアンズや他企業の軽音楽クラブ等、音楽ジャンルに囚われず、様々な音楽が聴ける場でした。

演奏後に、各音楽に精通した先生方にお褒めの言葉や、アドバイスを頂き大変有意義な音楽祭だと感じていました。

お客様から、「クラッシックギターでも、大きな音が出るんですね」と声を掛けて頂いた時や、先生方から「ギターパートの調弦が完璧でしたね」と褒められ、当時まだ駆け出しのパートリーダーの私にとって、大変励みになった事は今でも忘れません。

演奏後の懇親会に何度か参加しましたが、出演者の皆さんが「メンバーの転勤などで今の音楽レベルを維持する事は大変だ」と継続する難しさを話していましたが、それから数年後、ついに音楽祭が開催されることはありませんでした。

企業名を冠にするクラブも現在は数少なくなる中、当合奏団が70周年を迎える事が出来たのは、会社のご理解と団員の音楽に対する情熱に他ならないと思います。今後もご支援ご鞭撻をよろしくお願いします。

九州各県には、複数のマンドリン合奏団が存在しており、お互いに交流を深めながら切磋琢磨しています。

これら合奏団が一同に会するフェスティバルは、1976年に開始されました。以来、当楽団は毎年欠かすことなく出演し、昨年は40年連続出演表彰を受けました。人数が少ない時期も参加し続けた先輩方の情熱に敬意を表したいと思います。

 

【九州マンドリンフェスティバル】 村岡加奈子

毎年5月に開催される九州マンドリンフェスティバルは41年の歴史があります。第1回が開催されたのは1976年戸畑音楽ホールにおいてで、当時のパンフレットによるとプログラム第1番はなんと当楽団(当時:新日本製鐵マンドリン合奏団)による演奏だったとのことです。

フェスティバルでは演奏をする楽しみはもちろんのこと、九州各地のマンドリン団体の演奏を聴くことが出来、また多くのマンドリン愛好者の方々と交流できるのも楽しみの一つです。

そして何と言っても私が楽しみにしているのが「演奏旅行」の体を成すことです。バスに楽器を積み込んでみんなで会場へ向かう様はまるでプロの楽団の気分です。とは行ってもフェスティバル前日の観光のほうが目当てだったりしますけど。

長い間、北九州・福岡・熊本・大分の持ち回り開催でしたが、近年宮崎が加わり、来年の開催地は初めての長崎です。今から何を食べようかと、いえ、長崎の地で当楽団の音色を披露できることを楽しみにしています。

 

一方、北九州市近辺にも、社会人団体や大学などのマンドリン合奏団があり、北九州マンドリン連盟を結成しています。

各県持ち回りの九州のフェスティバルとは別に、連盟主催で一年に一度、北九州市内でフェスティバルを開催しています。昨年は30周年を迎えました。

ここ数年は門司港レトロを主会場としており、観光客も気軽にお立ち寄りいただいています。ラフな雰囲気で観客との距離が近いので、刺激を受けながら毎年出演を楽しみにしています。

 

【北九州マンドリン連盟】 有村美由紀

印象深い演奏会の一つは、私が入部した頃に開催されたメルボルンの合奏団と北九州マンドリン連盟の合同演奏会で、当時私は客席で拝聴しました。メルボルンの方々の演奏はとても表情豊かで、お互いアイコンタクトを取りながら、それは楽しそうに演奏されていました。すごく自然な感じで、聴いてる私もウキウキした気分になったのを覚えています。

連盟のメイン行事は毎年7月に開催される北九州マンドリンフェスティバルです。演奏形態も時代によって移り変わり、大ホールでの演奏会→各団体との親睦を深めるのを目的とした合宿形式の演奏会→近年は門司港にてどなたでも気軽に聴けるスタイルの演奏会を開催しています。合同演奏では学生さんや他団体の方と一緒に演奏することで、ほどよい緊張感の中、楽しい時間を過ごしています。他団体の指揮で合奏するのもとても勉強になり楽しいです。

そんなこんなで楽しいはずなのに、演奏会に来てくれる友人から「表情が硬いよ、コワイよ!」と言われることがあります。写真やビデオを見ると自分でも納得です。

今年は心に余裕を持って、もう少しだけ柔らかい表情で演奏できたらいいなと思っています

 

◆団内活動の進展

 

各自の技術のレベルアップと、団員相互の交流機会の提供は団内活動の大きな2本柱と位置づけます。

相互交流の場としては、演奏会等での打ち上げなどの宴席が考えられますが、当楽団では2010年からパーティー方式の「部内演奏会」を開催しています。

 

【部内演奏会の開催】 古賀 浩 

毎年桜の花の咲く頃、部内演奏会を開催しています。来年は第20回になります。それまでこの時期は定期演奏会の裏側に当たるオフシーズンでしたが、何かやりたい、楽しく演奏したいという団員の希望が集約されパーティー形式の演奏会が実現しました。

演奏は団員を3~4班に分けた1パート1名から2名のアンサンブル構成です。班の演奏のほかにも飛び入り参加のグループ演奏や個人演奏もあります。団内にこだわらず外部の方も弾くのも聴くのも自由です。

おいしい料理とお酒を味わいながらいろんな曲と演奏を堪能するちょっとほんのりした(演奏はガチですが)ひと時で、普段のフルメンバーでの練習や演奏とは一味違ったものになっています。

本番に至るまでの練習がちょっとばかりハードですが、それがあってこそのレベルアップと達成感。実際この演奏会を始めてから演奏力が向上したと感じます。当初は一回限りの予想もありましたが、いつの間にやら20回。このまま回を重ねていつかは定期演奏会に追いつきます。(それ無理)

 

また、遠方での演奏機会やシーズンオフの期間を活用した親睦旅行も、毎年のように開催しています。

合奏はチームプレーであり、このような楽しい機会を通じて、演奏においてもよりよいハーモニーを奏でることにつながるものと確信しております。

 

【親睦旅行の思い出】 執行真由美

私がこの合奏団に入った頃は、演奏会先で少し旅行をしていました。それが1997年定演の打ち上げで、団員の一人が「みんなでゆっくり温泉でも行きたいね」と話した事がきっかけで、演奏会なしの親睦旅行をする事になりました。

当時の企画班が翌年1月に嬉野旅行を計画しましたので、とても楽しみにしていましたが、親睦旅行当日は大雪。中止も検討されましたが「槍が降っても行くよ」と言う参加者がいて、宿泊先に確認をしたら「こちらは大丈夫です」と連絡があったので出発する事になりました。結局、予定していた柳川川下りも中止で移動だけでしたが7、8時間かかり、到着したのは夕方暗くなってからでした。移動中や旅館でも様々なハプニングに合い、演奏会参加だけでは体験できないハラハラドキドキな旅行になりました。今でもこの旅行を鮮明に覚えていて、企画する立場になった今でも私の中では断トツ1位の親睦企画の思い出です。

その後しばらくは演奏会に合わせた旅行が続きましたが、再び親睦旅行の話が持ち上がり、2010年6月今まで演奏会で行った事がなかった長崎に貸切バスで行きました。熊本からフェリーに乗り雲仙に移動した頃は大雨でしたが徐々に天気も回復し、長崎の夜景はとても綺麗でした。出島やグラバー園、また当時テレビで龍馬伝があっており亀山社中記念館などを見学してとても楽しかったです。

2013年からは定期演奏会後に親睦旅行をする事になり、天草のイルカウォッチングや周防大島のみかん狩り・広島宮島、角島・萩などへの旅行を企画しました。親睦旅行で団員の皆さんの演奏姿とは一味違う部分に出会えるのはとても楽しいですね。今までの旅行で培ったものを、今日の演奏で皆様に感じていただけると良いなと思います。

 

◆おわりに ~未来に向けて

 

以上、当楽団の歴史を概観してまいりました。70年の歴史のうち、私は後半の約30年合奏団に携わっておりますが、無我夢中で活動しているうちに、あっという間に時間が過ぎたような気がします。

そして今回、先輩方のご尽力と、多くの観客の皆様の支えによって、演奏活動を行うことができているということを、改めて実感しているところです。これからも、聴いていただいた皆様が少しでも元気を持って帰っていただけるような演奏を目指して、団員一同、頑張って参ります。

私たちは、観客の皆様と演奏を通じていつも一緒でありたいと願っています。皆様からいただいた会場アンケートは、その内容を毎年しっかり分析して、反省すべきところは反省し、お褒めの言葉があれば団員みんなで喜びをわかちあい、アイデアをいただければ大いに選曲の参考にさせていただいております。

これからも、私たち「新日鐵住金マンドリン合奏団」を末永くよろしくお願いします。

また来年の演奏会場でお会いしましょう!

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