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20周年記念プログラムより(20年の歩み)

 

昭和41(1966)年5月22日 
藤原義隆
 

 

 終戦の翌年、世情はまだ混沌としていて、ともすれば生きる希望さえも見失ひそうになるほどの苦しい日々の流れの中で、私達のマンドリン合奏団は生まれました。
 当時、従業員の趣味を育成し親睦をはかろうとする親和会文化部が発足し、また21年春には「より高い芸術意慾を理念とし、明るい音楽・高尚な音楽の普及指導を目的」として、音楽愛好家その他の篤志家が集って「音楽集団」が結成されるなど、こうした動きが、やがてマンドリン合奏団創立の気運につながってゆきました。

 「マンドリン・オーケストラのグループ出来る」と報じている所内紙「くろがね」21年7月25日号の記事でそのころの事情をうかがい知ることが出来ます。
 「当所芸能部の一翼として、美わしい薫風を送っていたマンドリングループが姿を消して久しくなるが、此の度、こういった人達をも含めて、煮しくマンドリ ン・オーケストラがつくられることになった」
 「そこで所内全般より汎く、マンドリン、マンドラ、ギター等の経験老を募る・・・・・」
と呼びかけています。
 この記事によりますと、戦前にも何らかの形でマンドリン合奏を楽しんでいたグループがあったことが判りますが、いづれにしても、現在の合奏団の胎動は、このようにして始められました。
 所内全般えの呼びかけに応じた人達は、その旗上げの場であった、高見クラブの日本間に、それぞれの楽器をもって集まり、心ゆくまでマンドリン合奏を楽しん だということであります。

 こういった当時の想い出話を聞くたびに、久しく絶えていたマンドリン合奏に浸りきり、弦の織りなす妙なる和声と、トレモロの流れの中で、それまで抑圧されつづけて来たマンドリンえの渇仰と情熱を傾けつくして弾きつづけたその人達のようすや、涙ぐみたくなるほどにこみ上げてきたであろう、その人達の嬉しさが、なぜかひしひしと感じられてなりません。

 設立当時の人達の話によると、スコアの入手についてでも、非常に苦心されだということです。最初は団員手持ちのスコアを持ちより、当時の限られた楽器構成に合わせて編曲を直したり、記憶をもとにスコアを作ったり、また、東京に出張した時などは、余暇を都内の楽譜商あさりにむけ、やっと見つけたスコアは、ポ ケットマネーをはたいたりしてまで入手して、演奏活動を続けられたとのこと。すべてが灰燼に帰したあとの、無にひとしい出発は、消耗品の補充も意のままにならず、また特殊な楽器の入手には会社からの援助もうけねばなりませんでした。

 21年夏から秋にかけての3カ月間、みっちりと猛練習をつづけ、11月6日にはじめて公開の演奏をこころみるはこびになりました。
 「初の発表会で満場魅了、マンドリン・オーケストラ盛会」
 「かねてから猛練習に余念のたかった、当所マンドリン・オーケストラ初の発表会は、11月6日午後4時から第一会議室で開催、精進の成果をひろく世にとう ことになったが、会場には早くも多数の同好者が押しかけ、稀にみる盛況を呈し、馥郁として流れる甘美なメロディーは忽ちに場内を恍惚の境に浸らしめ、初公演としては頗る成功を収めた」と、21年11月15日号「くろがね」がその反響を報じています。
 この成功は、当時5時までであったが勤務時間の1時間を割いて、これにあてる程の態度で合奏団を被護された、会社側の英断におうことも大きかった。

 このようにして周囲の祝福を一身にあつめて呱呱の声をあげた合奏団は、その後も春秋2回の定期演奏会を開く他に、当時の、ともすれば索莫となりがちな、従業員の心の慰めにと昼休みの職場巡廻や、夜間の寮慰問にもすすんで出かけていきました。
 しかし、やはり、当時の快挙といえば、24年11月11日九大医学部講堂で行なわれた勤労者音楽コンクールで、小池正夫氏の「古戦場の秋」を演奏し、職場器楽の第1位と綜合優秀賞を得て、絶賛を博したことでしよう。当時こうした音楽グループが少なかったとはいえ、プレクトラム音楽の真価を世に問うことになったのは見逃せない事実であります。

 ついで翌26年6月10日第10回の定演のあと、大分県竹田町に出かけ、地元のマンドリン合奏団体や合唱団体との合同演奏会に参加しました。滝廉太郎を生んだ土地柄もあって、聴衆の水準は高く、演奏も非常に力の入ったものになりました。その演奏会への意気込みは、当日のプログラムに刷り込まれていた趣意書に「我国は文化国家として世界の平和を希5旨中外に声明した、吾々も叉、文化人として、音楽を通じこれに協力しているのであるが、その運動をさらに推進するために、吾々はここに相共に手をたずさえたのである。もとより、それぞれの団体には、それぞれの個性もあり、伝統もあるが、一切の経緯を去り、純一の心 をもって相会し、文化の高揚につくさんとするものである」とあることにもその一端がうかがえるというものです。

 同年7月23日に旧八幡中央高校講堂で、当時小倉にあって名実ともに高水準にあった社会人合唱団・ロココ合唱団を招いて、社外ではじめての演奏会を開きま した。マンドリンオリジナル、独唱、マンドリン合奏の伴奏による合唱、マンドリン独奏というプログラムであったが、中でも今日、ホリデイ・イン・ジャパン の中で演奏する「荒城の月を主題とする二つのマンドリンの為の変奏曲」を、第1ソロマンドリン・大宅敬之、第2ソロマンドリン・秦政弘氏で演奏し満場の喝采をうけ、さらに大宅敬之厨のマンドリン独奏「東洋の夢」は素晴しい出来ばえで場内を魅了しました。

 以上、自画自賛めいたことを述べたてましたが、その後の私逢の上には決して順風満帆の日々が約束されていたわけではなく、職場団体としての共通の問題点、 つまりメンバーの拡充と安定、練習時間の制約、使いやすくて固定した練習場の確保など悩みの多い、長い長い20年でありました。
 その間、親和会主催の行義に参加することは勿論・男声合唱団・女声合唱団といっていたころからの当所合唱団との合同演奏や賛助出演のおつきあい、かいぜんスライド伴奏吹込み・ラジオ、テレビ放送、市民音楽祭、八幡コールハーモニー定演賛助主演、市成人式等々社内外の求めに応じて広く演奏活動をつづけるかた わら、合宿練習など行って技術の向上とレパートリーの拡張に努力を注いでまいりました。
 なかでも産業音楽参加は、私達の水準を確かめる唯一のチャンスでした。僅か20分足らずの演奏ですが、最善をつくしてのぞみ、その時うけた批評と助言を翌日からの練習の指針とし、またはげましともして参りました。
 さらに、34年に同志壮大学マンドリンクラブ、35年、36年に関西学院大学マンドリンクラブと前後3回ほど行なった合同演奏でうけた刺戟は、私達にとって貴重な経験となり、団員拡充への拍車ともなりました。

 100人のマンドリン合奏団になりたい、せめて100人近くの大編成で大型のオリジナル曲を弾きこなしたい。それは、今日でも私達が持ちつづけている目標であり、夢でもあります。こうして、今回はからずも、斯界の重鎮である服部正先生を、指揮者として迎え、創立20周記念演奏会をもつことが出来るはこびになりました。 
 しかも、今迄他の演奏団体に発表を許されたことのない、先生編曲の「ホリデイ・イン・ジャパン」までも演奏させていただくことになり、団員一同身に余る光 栄を痛感するとともに、何としても先生の労作の真価を演奏の上に現わしたいと念願している次第であります。
 明日からは、今宵の此の演奏会を足がかりとして、一層の精進と努力の日日を積み重ねてゆく覚悟であります。 

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